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2016年5月

2016年5月27日 (金)

関門海峡の海底トンネルを通って門司へ

さて、下関から門司へ行くのに、船を使わず、海峡を歩いて渡りました(#^.^#)
もちろん、明智左馬之助のように馬に乗って渡ったのではなく、海底トンネルを歩いたということです。

関門トンネルは二重構造になっていて、上が車、下が人道となっています。

下関のみもすそ川と門司のめかりを結ぶ780mの海底トンネルの人道入口には、エレベーターがあり、下関側は地下約55m、門司側は地下約60m降ります。

関門トンネル人道 下関側 

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通行料は無料ですが、軽車両(自転車・原付)は20円の通行料が必要です。
私は、自転車でしたので、押して歩きました。

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海底トンネルを利用する人がどれくらいいるのか少々不安な気持ちで降りたのですが、意外と観光客や、ウォーキングやジョギングをする人、通勤や買い物に利用する人などたくさんの方が利用していました。

ここが山口県と福岡県の県境

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ここで記念写真を撮る人たちの姿が見られました。

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トンネルというと、薄暗くて酸素が薄いようなマイナスイメージを抱いていましたが、この人道トンネルはそんなこともなく快適に歩けました。

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所要時間は約15分で、門司側に到着ヽ(^o^)丿

関門トンネル人道 門司側

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2016年5月19日 (木)

豊功神社から望む満珠・干珠島

櫛崎城趾の碑から坂を登って行くと豊功神社にでます。

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明治元年(1868年)、旧藩主毛利家の霊屋として創建されました。
 
祭神は応神天皇、武内宿禰(すくね)、大国主大神穂田元清、毛利秀元、毛利光広、毛利綱元、毛利元朝、毛利元矩、毛利匡広、毛利師就、毛利匡敬、毛利匡満、毛利匡芳、毛利元義、毛利元運、毛利元周、毛利元敏歴代の長府藩主を祭神としています。

大正6年(1917)6月、長府藩初代藩主・毛利秀元以下を祀った豊功社を忌宮神社境内から移して、それまであった櫛崎・松崎・宮崎の各神社を合祀し、豊功神社となりました。

本殿は昭和44年焼失しましたが、平成13年11月10日に再建されました。 

龍神社
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七福神社
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豊功神社の境内からは満珠・干珠を一望できます。

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満珠島・干珠島
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壇之浦の合戦前、源氏軍は、この島の周辺に本陣を構えたといわれています。


「日本書紀」の仲哀紀に登場するこの無人島は、忌宮神社の飛地境内で、祭神の神功皇后が住吉大神の化身である龍神から授けられた二つの玉、潮干珠(しおひるたま)・潮満珠(しおみつるたま)から生まれたという伝説がある島。また、彦火火出見尊が海神より授かった潮満瓊(しおみつたま)と潮涸瓊(しおひのたま)を両島に納めたという伝説もあります。 

原始林は、大正15年10月20日天然記念物に指定されています。

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二島は至近距離にあり、伝説ではどちらが満珠島か干珠島かはっきりしていませんが、忌宮神社では沖の大きい方を満珠島、岸に近い小さい方を干珠島と呼んでいるそうです。

豊功神社は初日の出の名所としても有名です。

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祈願の鐘
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2016年5月11日 (水)

櫛崎城址(下関市長府)

下関駅からサンデン交通バスの長府、小月方面ゆきバスに乗車して、松原バス停下車。

豊功神社に向かう途中、豊浦高校のグラウンド沿いに櫛崎城址の石垣と案内板があります。

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櫛崎城は、関門海峡を望む要衝として、周防灘に突き出した半島の高台に築かれた城で、串崎城、雄山城(かつやまじょう)、長府城、長府陣屋とも称していました。
串崎の名は、鎌倉時代の元寇で討ちとった敵兵の首をこの海岸に埋めたことから “首崎” が転化したものだと言われています。

当時の城域は北側の豊功神社に至るまでであったと考えられています。
当時の城郭図巻によると松崎口・浜之坂口・三軒屋口に櫓があり、櫛崎城趾の石碑が建てられている付近が松崎口(大手門二重櫓)の跡とみられています。
居館(政庁)跡地は、山口県立豊浦高等学校の敷地となっています。

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早くからこの地には、地の利を活かした海上勢力の拠点がありました。

源平合戦においても、源義経が頼んだのは串崎船で、その力を借りて、壇ノ浦の合戦で勝利を収めたといいます。


櫛崎城址石垣 長府宮崎町
 櫛崎城(串崎城とも書く)は遠く天慶3年(940)西海に勢力をふるった藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが 確かな記録はなく 一応大内氏の重臣 内藤左衛門太夫隆春が築城したものとされている
後 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦において豊臣方に荷担した毛利氏は 防長二州に減封され これにともなって 山口に居を
構えていた毛利秀元公が長府藩五万石の支藩としてこれを再築し入城 爾来 雄山(かつやま)城と称した
 元和元年(1615)に徳川幕府の定めた一国一城の令によってとりこわされ 隣接する県立豊浦高等学校の敷地に居館を置いた 当時の城郭図巻によると松崎口 浜之坂口三軒屋口に櫓建てがあり 現在櫛崎城址の石碑が建てられているあたりが 松崎口で大手門二重櫓の跡とみられている
   平成5年3月 長府観光協会

櫛崎城の歴史
天慶3年(940年)に藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが詳細は不明である。

戦国時代に大内氏の重臣内藤隆春が築城し、「温故私記」によると永禄12年(1569年)9月に、内藤氏家臣の勝間田盛長を城番として置いている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は防長二州に減封されたため、山口城に居を構えていた毛利秀元が支藩の長府藩の居城として改修し雄山城と称した。

しかし、元和元年(1615年)に江戸幕府の定めた一国一城令によって取り壊され、隣接地に居館を置いた。幕末の外国船との戦いに備えて築いた勝山御殿に移るまでの約250年、長府藩の政庁であり、藩主の居館であった。

幕末には攘夷のために櫛崎城跡も砲台とされ、東側から海峡に入って来る外国船を一番早く発見する役割を果した。真鍮砲3門と木砲4門が配備されていたが、四国艦隊下関砲撃事件の休戦協定が結ばれた翌日の元治元年(1864年)8月9日、戦利品として持ち去られた。(Wikipediaより)

 

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2016年5月 1日 (日)

下関の厳島神社

下関上新地の厳島神社は、「嚴島神社記録帳」によると、平家の守護神として安芸国嚴島神社の御分霊を安徳天皇の御座船に祀っていましたが、壇ノ浦の戦い後、磯辺に放棄されていました。後に里人に神託があって、「吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり」と、ふしぎに思いながらそこに行って見ると、磯辺に御鏡太刀様の物をみつけ、1185年(文治元年)里人たちが社殿を建立し、更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請しました。

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壇ノ浦の合戦の後、各地に落ち延びた平家の武者たちは、隠れ住みながらも、嚴島三神を祀りました。そして、勝者である源氏においても、嚴島三神の神威を尊び、斎き祀ることを咎めることなく丁重な対応をとったといいます。(長門国嚴島神社HPより)

宗像三神(「厳島三神」)として以下の三つの神を祀っています。

市杵島姫命(いつきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)

慶応2年(1866)の小倉戦争の戦利品として、奇兵隊が小倉城から持ち帰った大太鼓が、境内に飾られてあります。

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