下関駅からサンデン交通バスの長府、小月方面ゆきバスに乗車して、松原バス停下車。
豊功神社に向かう途中、豊浦高校のグラウンド沿いに櫛崎城址の石垣と案内板があります。

櫛崎城は、関門海峡を望む要衝として、周防灘に突き出した半島の高台に築かれた城で、串崎城、雄山城(かつやまじょう)、長府城、長府陣屋とも称していました。
串崎の名は、鎌倉時代の元寇で討ちとった敵兵の首をこの海岸に埋めたことから “首崎” が転化したものだと言われています。
当時の城域は北側の豊功神社に至るまでであったと考えられています。
当時の城郭図巻によると松崎口・浜之坂口・三軒屋口に櫓があり、櫛崎城趾の石碑が建てられている付近が松崎口(大手門二重櫓)の跡とみられています。
居館(政庁)跡地は、山口県立豊浦高等学校の敷地となっています。

早くからこの地には、地の利を活かした海上勢力の拠点がありました。
源平合戦においても、源義経が頼んだのは串崎船で、その力を借りて、壇ノ浦の合戦で勝利を収めたといいます。
櫛崎城址石垣 長府宮崎町
櫛崎城(串崎城とも書く)は遠く天慶3年(940)西海に勢力をふるった藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが 確かな記録はなく 一応大内氏の重臣 内藤左衛門太夫隆春が築城したものとされている
後 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦において豊臣方に荷担した毛利氏は 防長二州に減封され これにともなって 山口に居を
構えていた毛利秀元公が長府藩五万石の支藩としてこれを再築し入城 爾来 雄山(かつやま)城と称した
元和元年(1615)に徳川幕府の定めた一国一城の令によってとりこわされ 隣接する県立豊浦高等学校の敷地に居館を置いた 当時の城郭図巻によると松崎口 浜之坂口三軒屋口に櫓建てがあり 現在櫛崎城址の石碑が建てられているあたりが 松崎口で大手門二重櫓の跡とみられている
平成5年3月 長府観光協会
櫛崎城の歴史
天慶3年(940年)に藤原純友の配下稲村平六景家がこの地に拠ったとも伝えられているが詳細は不明である。
戦国時代に大内氏の重臣内藤隆春が築城し、「温故私記」によると永禄12年(1569年)9月に、内藤氏家臣の勝間田盛長を城番として置いている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏は防長二州に減封されたため、山口城に居を構えていた毛利秀元が支藩の長府藩の居城として改修し雄山城と称した。
しかし、元和元年(1615年)に江戸幕府の定めた一国一城令によって取り壊され、隣接地に居館を置いた。幕末の外国船との戦いに備えて築いた勝山御殿に移るまでの約250年、長府藩の政庁であり、藩主の居館であった。
幕末には攘夷のために櫛崎城跡も砲台とされ、東側から海峡に入って来る外国船を一番早く発見する役割を果した。真鍮砲3門と木砲4門が配備されていたが、四国艦隊下関砲撃事件の休戦協定が結ばれた翌日の元治元年(1864年)8月9日、戦利品として持ち去られた。(Wikipediaより)
応援のポチッのご協力お願いします。


にほんブログ村

偉人・歴史人物 ブログランキングへ
最近のコメント