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2016年6月

2016年6月21日 (火)

甲宗八幡神社(2)平知盛の墓

甲宗八幡神社の境内には、平知盛の墓と伝えられる石塔があります。

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墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山にありましたが、昭和28年の大水害の時に流され、拝殿裏に傾いたままであったのを、ここに再祀したそうです。

伝 平知盛の墓
  (向かって左・・・墓 向かって右・・・供養塔)

 この石塔は平知盛(1152~1185)の墓として甲宗八幡宮に伝わるものです。知盛は平清盛の四男で、勇猛果敢な武将として能「船弁慶」などの芸能にも取り上げられております。父清盛亡き後、平家の総帥となった兄宗盛を補佐し、平家一門の統率的存在となり、寿永3年(1184年)所領の彦島に本拠地を置き、古城山山頂に門司城を築いて戦に備え、翌年の壇之浦の戦い(1185年3月24日)では田野浦に兵を集め、満珠・干珠島付近に布陣する源氏を攻めますが、義経戦略の前に武運なく敗れ、安徳天皇をはじめ平家一門の最後を見届けると「見るべき程の事は見つ(見るべきものはすべて見た)」と潔く入水して一生を終えました。
 墓は甲宗八幡神社が鎮座する筆立山山中にありましたが、昭和28年の文字の大水害により流れ、拝殿裏に傾いたままの状態にありましたので、ここに再祀しております。
(案内板より)

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2016年6月14日 (火)

甲宗八幡神社(1)

甲宗八幡神社は門司六ヶ郷の総鎮守であり、源氏・平家のゆかりの地としても知られる神社です。

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清和天皇の貞観元年(859年)、大和国(奈良県)大安寺の僧侶であった行教が、豊前国の宇佐八幡宮(宇佐神宮)に参拝し、「桓武天皇は都を平安京に遷させ給うてより、五十年以上も経過したが、未だに王城鎮護の神なし。 願わくば神慮我に降って守護神を教え賜え」と祈願したところ、「吾れ都近く移座して国家を鎮護せん」とのご神勅を受けたことにより、翌年の貞観二年(860年)、清和天皇は太宰大弐・清原真人岑成を勅使として派遣しました。

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その勅使の命を受けた行教は、宇佐神宮のご分霊を山城国(京都府)に遷座する(岩清水八幡宮の創建)途中、門司関の霊峰筆立山の山麓に駐留しました。 すると、筆立山上空に瑞雲たなびき、不思議にも八流の幡を天降して、光り日月のごとく行教の袈裟を照らしました。 行教は大神の出現疑うべからずと上申し、この地に宇佐神宮のご分霊を祀り、神功皇后ご着用の御甲をご神体として外朝西門鎮守門司八幡宮(後に甲宗八幡宮)を創建しました。(甲をご神体として祀ることから甲宗と称すようになる)。

ご神体は、50年に一度行われる大祭でしか拝観できません。
前回は2008年に執り行われたので、次の拝観は、2058年となります。

楼門
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2016年6月 5日 (日)

門司の和布刈神社

関門海峡の海底トンネルを抜けて、門司側に渡ると、すぐに和布刈神社があります。

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境内の目の前は壇之浦。

関門海峡の一番幅が狭く潮の流れが速い早鞆瀬戸(はやとものせと)に面した九州側に建っています。

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鳥居の手前の左右の石灯籠は、細川忠興が寄進した石灯籠といわれています。

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和布刈神社は、神功皇后の三韓征伐後奉祀されたもので、仲哀天皇9年(200年)創建とされ、古くは「隼人明神」とも呼ばれました。

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海峡の守護神として崇敬を集め、建武3年(1336年)足利尊氏、応永年間(1394年~1428年)大内義弘、天正3年(1575年)仁保常陸介などによる諸社殿の修築造営が伝えられ、現在の社殿は明和4年(1767年)小倉藩主小笠原忠総の再建によるものです。

壇ノ浦の戦いの前夜には平家一門が酒宴を開いたと伝えられています。

「和布刈」とは「ワカメを刈る」の意であり、毎年旧暦元旦の未明に三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って神社の前の関門海峡に入り、海岸でワカメを刈り採って、神前に供える「和布刈神事」(めかりしんじ)が行われます。
和銅3年(710年)には神事で供えられたワカメが朝廷に献上されているとの記述が残っており、福岡県の無形文化財に指定されています。

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和布刈神社

 九州最北端に位置するこの神社は、社記によると、仲哀天皇九年に比賣大神、日子穂々手見命、鵜〔茲鳥〕葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命、安曇磯良神の五柱の神を祭神として、創建され、江戸時代までは、速戸社(はやとしゃ)とか隼人(はやと)社と呼ばれていました。

 近世末までは、時の領主である大内氏、毛利氏、小笠原氏の崇敬庇護厚く、神殿前には細川忠興公が寄進した灯籠があります。

 この神社には古くから和布刈神事が伝えられていますが、李部王記によれば、和銅三年(710)に和布刈神事のわかめを朝廷に献上したとの記録があり、奈良時代から行われていたものです。

 神事は、毎年旧暦大晦日の深夜から元旦にかけての干潮時に行われます。三人の神職がそれぞれ松明、手桶、鎌を持って海に入り、わかめ刈り採って、神前に供えます。

 わかめは、万物に先んじて、芽をだし自然に繁茂するため、幸福を招くといわれ、新年の予祝行事として昔から重んじられてきたものです。

 神事のうち、わかめを採る行事は、県の無形民俗文化財に、また、当神社に伝存する中世文書九通は、市の有形文化財に指定されています。


北 九 州 市     
北九州市教育委員会




早鞆稲荷

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