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2017年1月

高野山を訪ねて(10)滝口入道・横笛ゆかりの大圓院

大圓院は、延喜年間(901~923)に聖宝理源大師により開設されました。
この時は多聞院と呼ばれていました。
 
表門
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寛永2年(1625年)の建築
 
玄関
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本堂
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12世紀頃、第8代住職を務めた阿浄とは、高山樗牛の小説『滝口入道』で有名な滝口入道のことです。
出家前の名前は斎藤時頼で、平重盛に仕える平家の武将でした。
 
ここ大圓院には、入道と横笛の悲恋が伝えられています。
滝口入道が大円院の縁にいた時、一羽の鶯が梅の木にとまり、綺麗な声で一声鳴くとその木の下にある井戸にポトリと落ちて、死んでしまいました。この鶯は、横笛の化身であり、高野山の滝口入道に会いに飛んで来たといわれる寺伝があります。
入道は、その鶯が横笛だと気づき、横笛の菩提を弔うため、阿弥陀如来の胎内に亡くなった鶯(横笛)を収め、「鶯の弥陀」として大圓院の本尊としました。
 
横笛碑
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鶯になった横笛がとまりにきた「鶯梅(おうばい)」という紅梅。
 
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鶯になった横笛が落ちたとされる鶯の井戸
 
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1600年(慶長5年)頃、柳川藩主・立花宗茂の帰依により宗茂の法号である大円院殿をもらい、寺名を「大圓院」に改称しました。
 
鐘楼
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貞享5年(1688)鋳造

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高野山を訪ねて(9)熊谷寺

熊谷寺の名前の由来である熊谷直実、その師の法然上人等が逗留され、平敦盛並びに源平総死者供養を行ったお寺です。
 
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奥之院に近いところに位置しています。

円光堂

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円光堂の本尊は法然上人。

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手前の石像は熊谷次郎直実(熊谷蓮生)です。
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不動明王も祀られています。
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正面玄関には不動明王と八大童子様がお迎えをしてくれます。
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当寺は圓光大師(法然上人)・見真大師(親鸞上人)・熊谷蓮生法師(熊谷直実公)の御旧跡、法然上人二十五霊場の番外札所です。
 当寺は桓武天皇(737~806)の皇子、葛原親王(786~853)の御願により、承和4年(837年)に建立せられ、宗祖弘法大師(774~835)の法孫、真隆阿闍梨が初代住職です。
 寿永3年(1184年)2月7日、摂津(今の神戸市)一の谷における源平の合戦(鵯越の逆落とし)に敗れた平家方の将兵は友軍の軍船に逃れましたが、この時遠浅の海に駒を乗り入れた武将を呼び返した熊谷直実は格闘数合やがて組敷いて首級をあげようと良く見ると、一子小次郎直家と同年輩の美少年、平家の大将参議経盛(1,125~1,185)の末子敦盛(1,169~1,184)でした。
 直実は同じ日の未明、敵の矢に傷ついた直家の「父よ、この矢を抜いてたべ」との願いを耳にするも、敵中の事とて傷の手当てをする暇なく敵陣深く突入した時の親心の切なさを思い起こし、敦盛の首を斬るに忍びず、暫し躊躇ったのですが、心を鬼にして首を掻き斬ったのです。
 かくて直実はほとほと世の無常を感じて発心し、当時日本一の上人と尊崇されていた吉水の法然上人の弟子となり「法力房蓮生」の名を与えられ、専心念仏の行者となったのです。
 建久元年(1,190年)は敦盛卿の7回忌に当たるにつき、追福の法要を営まんと思い立ち、師法然上人の指示により高野山に登り、父祖の菩提寺であった当寺(当時は智識院と言う名だった)に寄寓し、敦盛卿の位牌および石塔を建立し、懇ろに敦盛卿の菩提を祈ったのです。
 以来14年間山に留まり念仏に専心し、建仁元年(1,201年)鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会をこの山で営んだ時、法然上人その特請に遭われ、親鸞聖人及び圓證入道関白兼実(1,149~1,207)と共に登山し一夏九旬の間当寺に留錫、そのころ真別処において称名念仏していた24人の社友等と交誼を交えながら衆生済度の大願を祈求されたのです。
 或る時御三方(法然上人・親鸞聖人・熊谷蓮生)庭前の井戸の水鏡にて各々のお姿を写され、自らその像を彫られました。その御尊像を奉安してあるのが、表門の横にある「圓光堂」です。
 また、法然上人は龍華三会の暁に、弘法大師に値遇の良縁を結ばんが為に、末世道俗摂化の方便にもと五輪の石塔を奥の院のほとりに建立し、自ら梵字を書し「源空」の二字を刻んで置かれました。
 上人の滅後、弟子等相寄り御芳骨をその塔下に納め奉ったと伝えられており、「高野山圓光大師廟」とは、この五輪塔の事であります。
 蓮生法師は承元2年(1,208年)9月14日、念仏を唱え睡るが如く往生されました。その後直家は亡父の遺命により登山、当寺の堂宇を改造修築して追孝の法要を営みました。
 この事が時の将軍実朝公の知る所となり、蓮生房の詠まれた「約束の念仏」の歌と、「熊谷寺」と書かれた扁額を寄進されました。
この因縁により「熊谷寺」と改称し今日に及んでいるのであります。
 弘長4年(1,264年)親鸞上人の3回忌に当たり、覚信尼公(親鸞上人の末娘 1,224~1.283)上人の遺命にて御臨終の名号並びに御遺骨、及び御母公玉日(九条兼実の娘、恵信尼)の前の木像を、使者日野家の士下条専右衛門頼一を遣わして当寺に納められ、且つ上人が師の流れを汲んで、かねて手書しおかれた梵字を刻んで石塔を建立されました。
 上述の如く当寺は承和4年創建以来ここに千百有余年、高野山の歴史とその運命を共にしてきたのでありますが、明治21年3月に高野山に大火があって、当寺もその災にかかり、堂舎悉く消失しました。
以来、先師の並々ならぬ努力により再建され、逐次坊舎の増築するにあたり、旧に倍する規模を呈するに至っております。(熊谷寺HPより)

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高野山を訪ねて(8)孔雀堂

正治元年(1199年)、京都・東寺の長者の延杲(えんごう)は、後鳥羽法王の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立され、翌年の正治2年には本尊が奉安されました。
 
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昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。
 
正治二年(1200年)に安置された本尊の孔雀明王像は快慶作で重要文化財に指定され、現在は霊宝館に収められています。
 
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新年のご挨拶

明けましておめでとうございます!

昨年も当ブログへのコメント&応援ありがとうございました

m(__)m

今年もよろしくお願いいたします。

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