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2017年3月22日 (水)

高野山を訪ねて(16)高野山霊宝館

高野山霊宝館は、高野山内の貴重な文化遺産を保存展観する施設として大正10年(1921年)に有志者の寄付と金剛峯寺によって開設されました。
この時に建てられた本館は、平成10年(1998年)に登録有形文化財として指定されています。
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その後、大宝蔵、収蔵庫が増設されました。
 
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現在、高野山霊宝館では、国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美術品2件、合計182件、約2万8千点弱を収蔵し、未指定品ともなると5万点以上を数えるとのことです。
その中には、宝簡集巻第33巻所収「国宝 源義経自筆書状(平安時代)」があります。
義経が高野山の訴えに対して認めた自筆の書状。
平氏が西海に没しようとする時期のこと、高野山の所領であった阿弖河庄(あてがわしょう)が横領される事件が起った。この一件に対し、都にて代官を務めていた義経が、高野山側の訴えを認めた時のもの。(高野山霊宝館HPより)
画像はコチラ↓
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/syoseki.html
 
阿河荘
 
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

紀伊国有田(ありだ)川の上流に位置する山間の荘園(しょうえん)(和歌山県有田郡有田川町)。阿弖川荘、阿瀬川荘とも書く。10世紀末には石垣上荘(いしがきかみのしょう)ともいわれた。中納言(ちゅうなごん)平惟仲(これなか)が1001年(長保3)に京都の白川寺喜多院(寂楽寺(じゃくらくじ))にこの荘園を寄進した。12世紀なかば以降、領有をめぐって寂楽寺と高野山(こうやさん)が争っている。1210年(承元4)御家人湯浅氏が地頭職(じとうしき)に補任され、以後、寂楽寺(本家職は円満院)、高野山、湯浅氏の三つどもえの争いが展開する。1275年(建治1)の有名なかたかな書きの百姓申状は、寂楽寺と地頭との争いのなかで、『貞永(じょうえい)式目』の注釈書『唯浄裏書(ゆいじょううらがき)』の作者で寂楽寺雑掌(ざっしょう)斎藤唯浄が書かせたものである。阿河荘は上、下からなり、12世紀には田地計100余町である。1304年(嘉元2)円満院は領主権を高野山に譲ったが、湯浅氏と高野山の争いはなお続いた。
昨年訪ねたときは、「真田丸の時代と高野山」の展示が行われていました。
 
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コメント

現在、高野山霊宝館では、国宝21件、重要文化財143件、和歌山県指定文化財16件、重要美術品2件、合計182件、約2万8千点弱を収蔵し、未指定品ともなると5万点以上を数えるとのことです。
その中には、宝簡集巻第33巻所収「国宝 源義経自筆書状(平安時代)」があります。拝見しました!達筆ですね!

四方さん、早速見てくださってありがとうございます。

これらが一堂に展示されるわけでないので、自分の見たいものに
出会えるのはなかなか難しいですね。

義経の書状は、時には公開されているのでしょうか?
いつか見たいものですね。

めりいさん、コメントありがとうございました。

昨年は、一年を通して「真田丸」」の取材に明け暮れていたため
源平情報をほとんどチェックしていませんでした。
この書状の公開についても、今後目を光らせておきます!

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