高野山を訪ねて(16)高野山霊宝館
この時に建てられた本館は、平成10年(1998年)に登録有形文化財として指定されています。
紀伊国有田(ありだ)川の上流に位置する山間の荘園(しょうえん)(和歌山県有田郡有田川町)。阿弖川荘、阿瀬川荘とも書く。10世紀末には石垣上荘(いしがきかみのしょう)ともいわれた。中納言(ちゅうなごん)平惟仲(これなか)が1001年(長保3)に京都の白川寺喜多院(寂楽寺(じゃくらくじ))にこの荘園を寄進した。12世紀なかば以降、領有をめぐって寂楽寺と高野山(こうやさん)が争っている。1210年(承元4)御家人湯浅氏が地頭職(じとうしき)に補任され、以後、寂楽寺(本家職は円満院)、高野山、湯浅氏の三つどもえの争いが展開する。1275年(建治1)の有名なかたかな書きの百姓申状は、寂楽寺と地頭との争いのなかで、『貞永(じょうえい)式目』の注釈書『唯浄裏書(ゆいじょううらがき)』の作者で寂楽寺雑掌(ざっしょう)斎藤唯浄が書かせたものである。阿河荘は上、下からなり、12世紀には田地計100余町である。1304年(嘉元2)円満院は領主権を高野山に譲ったが、湯浅氏と高野山の争いはなお続いた。
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