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2017年4月

2017年4月29日 (土)

源頼朝ゆかりの鳳来寺(2)本堂~鐘楼

寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山、霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したと伝わっています。
 
文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっています。
 
利修の加持祈祷により、天皇は快癒し、この功によって伽藍が建立されたといいます。
 
源頼朝が平治の乱で落ち延びた際、 この鳳来寺医王院で13歳から3年間匿われたことから、鎌倉時代に頼朝によって再興されたと伝わっています。
 
戦国時代には、近郊の菅沼氏から寺領の寄進を受けますが、豊臣秀吉の時代では300石のみを許されただけで、他は悉く没収されました。
 
江戸時代に入ると幕府の庇護を受け、850石に増領。
 
徳川家光の代では、徳川家康の生母・於大の方が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したため、当山諸僧坊の伽藍が改築されただけでなく、家康を祀る東照宮が新たに造営され、東照宮の運営領を含む1,350石が新たに寺領となりました。
本堂
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休憩所
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鐘楼
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常行堂址              番所址
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2017年4月18日 (火)

源頼朝ゆかりの鳳来寺(1)鳳来寺山東照宮

昨年の秋、鳳来寺の駐車場まで車で行き、東照宮から参拝しました。

毎年、紅葉の時期、11月1日から30日までもみじまつりが開催されます。

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素晴らしい山の眺望と紅葉のトンネルを同時に楽しめます。

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ここから階段を上っていきます。

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徳川家康の生母・於大の方が鳳来寺の薬師に祈願し、家康を授けられたという寺として、徳川家光により東照宮が建築されました。

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日光東照宮・久能山東照宮とともに、日本三東照宮と称されています。

慶安元年(1648年)4月、日光東照宮へ参拝した折に改めて『東照社縁起』を読み、徳川家康の出生と三河国設楽郡の鳳来寺との縁に感銘を受けた江戸幕府3代将軍家光が、鳳来寺の本堂修復と薬師堂の再建を発願、それにあわせて新たに東照宮の創祀を計画し、阿部忠秋や太田資宗に命じて造営事業を進めたが、志半ばで薨じたため、跡を継いだ4代将軍家綱が太田資宗や本多利長、小笠原忠知等に命じて慶安4年(1651年)に社殿が竣成、同年9月17日に江戸城内の紅葉山御殿に祭られていた「御宮殿」(厨子)と神体である「御神像」(神像)を遷祀したのが創まりである。遷祀に際しては盛大な遷座祭が斎行され、将軍家綱から、家康が関ヶ原の戦いで帯刀したという太刀が神刀として奉納されたほか、諸大名からも太刀や灯篭などの奉納があったという。以後、鳳来寺を別当寺と定め、明暦2年(1656年)には幕府から社領470石の寄進があり、江戸時代を通して10回に及ぶ修理が幕府により行われている。(Wikipediaより)


『東照社縁起』によると、

家康の父母である松平広忠と正室於大の方(伝通院)は、子のできないことを憂い、祈願のために夫妻そろって領内の鳳来寺に参篭したところ、伝通院が東方より現れた老翁に金珠を与えられる夢を見て、間もなく家康を懐妊したといいます。

また、「鳳来寺の伝説」によると、

家康の出生は壬寅年寅月寅の日にあたる天文11年(1542年)12月26日の寅の刻(午前5時頃)であったとされていますが、鳳来寺では家康誕生と時を同じくして、薬師堂の本尊である薬師如来を守護する十二神将の中、寅神でもある真達羅大将の神像が忽然と姿を消し、家康が薨ずると神像もひとりでにもとの位置に戻っていたといい、以来、家康は真達羅大将の化身であったと伝えられています。(Wikipediaより)

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2017年4月 6日 (木)

浄瑠璃姫と義経

昨年秋、久しぶりに鳳来寺に行ったので、浄瑠璃姫と義経」の彫像のところまで行ってみました。

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平成8(1996)年3月に整備され、彫像は、鈴木武右衛門氏によるものです。


義経                   浄瑠璃姫
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数年前に見たときも思ったのですが、あまりに芸術的過ぎて、理解できなかったのですが、この苦しみもがいている様子が、二人の悲恋を表しているのでしょうか。


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浄瑠璃姫と義経  

 平家が都で全盛を誇っていたころ、岡崎の近くの矢作の里に、兼高長者という金持ちの権力者が住んでいました。長者には、鳳来寺のお薬師様に祈願して生まれた、浄瑠璃姫という美しい一人娘がありました。
 姫が15歳の春、平家の目を逃れ、藤原氏を頼って奥州へ向かう義経が、源氏とつながりのある兼高長者の家に泊まりました。姫と義経は愛し合うようになりましたが、義経はいつまでもいることはできません。
 「半年たったら、鳳来寺の千寿峰(せんじゅがみね)で私を待て」と言った義経の言葉を信じて、姫は乳母とともに千寿峰に来て、麓の笹谷(ささだに)に庵をつくって住みました。ある日、義経が通るといううわさを聞き、往来まで出て道行く人にたずねると、もう義経は通り過ぎてしまったということでした。悲しんだ姫は庵のほとりで自害してはかない一生を終えました。
 今も千寿峰の西の山の中に、浄瑠璃姫をまつる祠があります。(案内板より)

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