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2018年3月

2018年3月29日 (木)

日蓮聖人の先祖・貫名氏の館跡に建つ妙日寺

そもそも、この疑問を持ったのは、我が家の愛犬のお墓があるお寺の入り口に掲げられてる「井桁と橘」の紋に始まります。

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気になって、井伊家に関係があるのかとご住職に質問したところ、それは日蓮宗の紋だという。
そこに偶然通り掛かった息子さんが、「日蓮のお父さんが、井伊家の人だからでしょう。」と。

と、前に訪ねた共生寺の説明と結びつき、袋井のあるお寺に向かってみました。

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袋井市の妙日寺は、正慶元年(1332年)身延山・久遠寺4世・日善を開山として、貫名次郎重忠の邸宅跡に創建されました。

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日蓮の父の法名「貫名山」を寺名としています。

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井伊家5代目当主・盛直の三男・政直が、遠江国山名郡貫名郷に所領を得て、貫名氏初代になりました。

日蓮の出生には諸説ありますが、

日蓮は、1222年(貞応元年)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生。
父は貫名次郎重忠、母は梅菊とされています。

貫名氏は、保元の乱(1156年)の頃、井伊氏より分かれた井伊・赤佐・貫名という分家のひとつであるといい、この系図が妙日寺に残されているそうです。

貫名氏4代目の重忠の四男の薬王丸というのが日蓮聖人の幼名とされています。

重忠は、源平合戦で、平氏に味方したため、鎌倉幕府から安房小湊へ流されたといいます。

妙日寺には、重忠夫妻のために、柳生但馬守によって建立された「妙日尊儀・妙蓮尊儀供養塔」は、江戸時代初期の形をよく残した五輪塔で、市指定文化財に指定されているそうです。
この五輪塔も見たかったのですが、参拝した日にちょうど境内の工事をしていていたため、墓所の見学は諦めました。

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本堂
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思親殿
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日蓮上人と両親の木像が安置されています。

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遠州七不思議のひとつ「片葉の葦」
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東国へ旅立った重忠を惜しむように東側に葉を付け茂っているそうです。

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2018年3月21日 (水)

随縁寺と共正寺 頼朝に配流された貫名氏

寺島村(現・浜松市南区寺島町)に無住状態で寺号だけが残っていた普済寺(現・浜松市中区広沢)の前身だった随縁寺は、明治32年(1899)10月、村櫛の地に移され、再興する形で開かれました。

この時、廃仏毀釈で廃寺となった宝谷寺の住職が、私財をなげうって買い取り、宿廬寺(浜松市西区庄内町)に預けられていた大日堂の大日如来像が須彌壇とともに移されました。

当初、随縁寺は、村の中央にある上の山の中腹に建てられ、本堂は宿廬寺の衆寮を移したものでしたが、山の中腹で不便であったため、大正11年(1922)に現在の地に移転。現在の本堂は、昭和4年(1929)に建てられたものです。(村櫛町自治会HPより)

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また、村櫛小学校の南西に共正寺という小堂があります。

以前は「法雲山共正寺」という日蓮宗のお寺でしたが、無住や老朽化のために、平成14年8月に小堂として再建されました。

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村櫛開村の創、 共資公はこの地に葬られ(御山塚・990年)日蓮大聖人の御縁祖であられることを顕彰して有縁の祖霊に報恩供養塔として昭和28年日康上人より創建された。

共資公とは、井戸の傍らに捨てられていたという「井伊共保出生の井」で知られる井伊氏初代当主・井伊共保が、養子に入った遠江守・藤原共資のことです。

ここで気になったのが、「日蓮大聖人の御縁祖」という記述です。

以下、村櫛町自治会HPの説明です。

藤原共資から六代の孫で井伊盛直の第三子正直が 山名郡貫名 (袋井市)の地を領していたが、正直から三代の重忠が、源平の争乱に際し平氏に加担したとして、源頼朝の怒りにふれて安房国長狭郡東条村 小湊(千葉県鴨川市)へ配流された。その重忠の長子として承久三年(1221)小湊で誕生したのが薬王丸、後の日蓮上人であるとの伝承が残されている。(日蓮の出生地には諸説がある。)
 この寺は、大正8年(1919)、日蓮宗法雲寺(浜松市中区)の当時の住職の日康が、荒れたこの地(御山塚・日蓮様と呼ばれている)を発見し、日蓮を供養するために墓標を建立したことに始まる。昭和29年(1954)、浜松駅前にあった法雲寺の新築に伴い旧本堂を村櫛に移築して共正寺が創建された。ちなみに寺名の共正寺は共資公、 立正大師)の一字から付けられたとのことである。御山塚の山頂には、昭和30年、藤原 共資公ともすけこう 墳墓顕彰記念碑が建立され、翌31年には本殿が落成した。さらに檀家により石段、灯籠などが整備された。

日蓮上人の父親が井伊家の分家・貫名家の出であるという説・・・
 

このことが、後に訪ねたお寺に繋がっていくのでした。

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2018年3月13日 (火)

五個荘の町(4)大城神社

大城神社の創建は推古天皇29年(621)、聖徳太子が小野妹子に命じて金堂寺を開いた際、鎮守社として勧請されたのが始まりとされます。
 
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嘉慶2年(1170)に現在地に遷座し、高皇産霊神、伊邪那岐命、出雲路幸神、天児屋根命、天満宮、武内宿弥大臣を勧請合祀し、五個荘の産土神と仰ぎました。
 
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文亀3年(1503)には当時の地頭・那須興市が金堂寺を改修した際家運長久を祈願し、近江の守護職・佐々木氏の居城観音寺城の鬼門に位置していたため、守護神として崇敬庇護されました。
 
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佐々木氏が織田信長により滅ぼされた後、大城神社も一旦衰退しましたが、江戸時代になり、領主・柳澤氏より庇護されました。
もとは大宮神社、天満宮と称していましたが、明治36年改称、同14年、郷社に列せられました。

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2018年3月 5日 (月)

五個荘の町(3)近江商人屋敷

五個荘まで来たついでに、近江商人屋敷のエリアを散策しました。
 
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重要伝統的建造物群保存地区の五個荘金堂町には、五個荘商人の本宅を公開している施設があります。
 
外村宇兵衛邸
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外村宇兵衛家は、五箇荘商人として活躍していた外村与左衛門(6代)の末子が、分家して興したものです。 
 
文化10年(1813)に与左衛門との共同事業から独立して商いを始め、努力の末に東京・横浜・京都・福井などに支店を有し呉服類の販売を中心に商圏を広げ、明治時代には全国の長者番付にも名を連ねるほどで、当家の庭は、作庭当時神崎郡内一番の庭とも言われたそうです。 (東近江市HPより)

外村繁邸
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この家は、滋賀を代表する作家・外村繁の生家で、4代目・外村宇兵衛の妹「みわ」が婿養子吉太郎を迎えて分家したのが始まりです。吉太郎は、宇兵衛本家の京都店に勤め、明治40年に独立、東京日本橋と高田馬場に木綿呉服問屋を開き活躍しました。
外村繁は、この家の三男として生まれ、一時家業を継ぎましたが、後に文学への夢が捨てきれず弟に家業を託し作家活動に専念。この屋敷の蔵は、外村繁文学館として、繁の資料を展示しています。 
外村宇兵衛家の分家として江戸時代末期に建てられた屋敷で、総面積2395平方メートル・建物面積496平方メートルもあり、門を入ると川の水を取り入れた川戸と呼ばれる水屋があり、玄関に続く石畳の右手には広い庭があります。(東近江市HPより)

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