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2018年5月

俊寛の碑

鹿児島市中町の西本願寺別院近くのビルに囲まれたある一角に「俊寛の碑」の石碑があります。
 
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ここは、俊寛が鬼界島に流されるときに船出した場所といわれています。
 
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明治31(1898)年頃、ここが埋めたてられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていましたそうです。
 
俊寛は、後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありましたが、安元3年(1177年)鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた藤原成親西光らの平氏打倒の陰謀に加わりました。(鹿ケ谷の陰謀
 
しかし、多田行綱の密告により陰謀が露見。
藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。
 
三年後、二人は帰ることを許されましたが、俊寛だけは許しが出なかったため、そのまま島に残り、亡くなりました。
 
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源義家ゆかりの円通寺

東京都荒川区南千住の円通寺
 
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寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。
 
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円通寺サイトによると、

当寺を中心に六里四方を観音原と呼んでいたが、八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四拾八を此処に埋め四拾八塚(首塚)を築いたことにより、小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。
 
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首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」が刻んである七重の石塔

石造七重の塔の銘に(現存する荒川区最古の石文)

「七層虚をあお凌ぎ、貞石兪々新たなり、永く惠日懸りて、枯木も常に春なり」

とあり、別の面に当寺の由緒が刻んである。 
 
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熊野の長藤(2)遍照山西法寺跡

境内の中に進んでいくと、見事な藤棚が広がっています。 

 

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白藤はまだ長さが不十分でした。

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 ここには、昔 遍照山西法寺という寺院がありました。  

遍照山西法寺跡
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遍照山西法寺跡
 
 ここには『遍照山西法寺(へんしょうざんさいほうじ)』という寺院がありました。西法寺は、今から約770年前の鎌倉時代の貞永年間(1232年)に創立された真言寺院で、本寺は高野山普門院、本尊は不動明王でした。真言宗は平安時代に空海(弘法大師)によって開かれたもので、遠州では袋井市の法多山、油山寺、磐田市の医王寺、浜北市の岩水寺、浜松市の鴨江寺、龍禅寺。三ヶ日町の摩訶耶寺などがあり、いずれも古い時代より続く大きな寺院です。
 豊田町の寺院も多くは真言宗により創立されました。しかし、鎌倉時代に広がった新仏教は、奈良・平安時代以来の貴族中心の信仰から庶民信仰の仏教へと大きく変化し、その流れの中で、町内寺院もほとんどが曹洞宗と時宗に改宗されました。江戸時代に書かれた『遠淡海地志(とおとうみちし)』によれば、この時代の町内四二カ寺のうち、曹洞宗三九、時宗二で、真言宗は西法寺の一カ寺のみとなっています。おそらく、西法寺は、鎌倉時代に広がった庶民仏教とは一線を画し、武士層など比較的経済的に恵まれた人々の信仰を集めていた寺院だったのではないでしょうか、現在では、お寺は浜松市に移り、五戸の檀家衆のうち豊田町内三戸の檀家衆によって法灯が守られています。
 

 

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