源頼朝布陣伝承地(2)松橋弁天
かつて金剛寺の領域内には松橋弁天と呼ばれる弁才天を祀った祠がありました。
当寺院傍に流れる石神井川の崖下にあった洞窟に祀られていた弁才天で、弘法大師の作ともいわれています。松橋は当地の旧名で、弁才天は岩屋にあったことから岩屋弁天ともいわれました。
『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われているそうです。
弁天像を納めていた岩屋も、1975年頃に石神井川の護岸工事が行われた際に取り壊されてしまったそう。
現在都営住宅が建っている付近の崖に、かつては弁天の滝と呼ばれていた滝があり、夏は滝で水遊びをして涼をとる様子が、広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれているそうです。
もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。上の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。
崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。
また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏のこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の「名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑わっていたのです。
滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975)前後に石神井川の護岸工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。(案内板より)
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