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2018年7月

2018年7月24日 (火)

源義家が戦勝祈願した王子神社

王子神社の御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称して「王子大神」と呼ばれています。
紀州の熊野三社権現(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、熊野古道には多くの王子神が祀られていたといわれます。
創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、当社の社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めた故事も伝えられ、古くから聖地として崇められていたと思われます。
その後、元亨2年(1322年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え、改めて「若一王子宮」と奉斉し、熊野にならって景観を整えたといわれます。それよりこの地は王子という地名となり、神社下を流れる石神井川もこの付近では特に音無川と呼ばれています。
徳川時代に入ると、徳川家康は、天正19年(1591年)、朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。
三代・家光は寛永11年(1634年)、新たに社殿を造営、林羅山に命じて縁起絵巻「若一王子縁起」三巻を作らせて当社に寄進しました。
その後も五代綱吉公が元禄16年(1703年)、十代家治公が天明2年(1782年)、十一代家斉公が文政3年(1820年)と造営修繕された社殿は秀麗な権現造りで、境内には神門、舞殿などをそなえ、摂末社も17社を数えていました。
特に八代・吉宗は紀州徳川家の出自で、この地に紀州ゆかりの当社があることを大いに喜び、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。これが今に残る花の飛鳥山(現 飛鳥山公園)の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。(王子神社HPより)
明治初期 准勅祭社に指定。
昭和20年(1945年) 戦災で社殿を焼失。
昭和39年(1964年)、昭和57年(1982年)の二回の造営を経て社殿を再建。
(Wikipediaより)
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2018年7月12日 (木)

源頼朝布陣伝承地(3)音無親水公園

音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くから四季の行楽の名所、景勝の地でしたが、戦後の発展とともに石神井川は生活排水などで汚れた川となってしまいました。

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昭和30年代から始まった改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園ができました。(東京都北区HP参照)

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音無川のこのあたりは、 古くから名所として知られていました。 江戸時代の天保7年に完成した「江戸名所図会」や、 嘉永5年の近吾堂板江戸切絵図、 また、 安藤広重による錦絵など多くの資料に弁天の滝、不動の滝、石堰から落ちる王子の大滝などが見られ、広く親しまれていたことがわかります。

「江戸名所花暦」 「游歴雑記」などには、 一歩ごとにながめがかわり、投網や釣りもできれば泳ぐこともできる、 夕焼けがひときわ見事で川の水でたてた茶はおいしいと書かれており、 江戸幕府による地誌、「新編武蔵風土記稿」には、このあたりの高台からの眺めについて、飛鳥山が手にとるように見え、 眼の下には音無川が勢いよく流れ、石堰にあたる水の音が響き、 谷間の樹木は見事で、 実にすぐれていると記されています。

こうした恵まれた自然条件をいまに再生し、後世に伝えることを願って、昭和63年、北区は、この音無親水公園を整備しました。

    たきらせの 絶えぬ流れの末遠く すむ水きよし 夕日さす影

                                

飛鳥山十二景のうち滝野川夕照より

 昭和六十三年三月                      東 京 都 北 区 」

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