頼朝の愛した新居町(4)風炉の井戸
お城風の造りの湖西市消防署の前を通って進んでいくと、民家の一角に、風炉の井戸という史跡があります。
風炉の井
この石積井戸は、深さ2m、口径は最大1.8mあり、以前はもっと深かった。
言い伝えによると、建久元年(1190年)源頼朝が上洛のおり、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。
平成二十二年三月 湖西市教育委員会
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お城風の造りの湖西市消防署の前を通って進んでいくと、民家の一角に、風炉の井戸という史跡があります。
風炉の井
この石積井戸は、深さ2m、口径は最大1.8mあり、以前はもっと深かった。
言い伝えによると、建久元年(1190年)源頼朝が上洛のおり、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。
平成二十二年三月 湖西市教育委員会
熊野御前の命日とされる5月3日には熊野御前供養祭が行われます。
熊野(左)と熊野の母(右)の墓
手前が熊野の墓
平安の頃、池田の宿に、花のように美しく優しい熊野という娘がおりました。見付の国府に赴任していた平宗盛に見初められた熊野は、やがて都へ上って行きました。
宗盛と幸せな日々を送っていた熊野のもとに、ある日、母の病の報せが届きます。池田へ帰りたいという熊野の願いを、しかし宗盛は愛するあまり放しがたく、聞き入れてくれません。
春、桜見物の席で、熊野は、「いかにせん、都の春も惜しけれど、なれしあずまの花やちるらん」(都も離れがたいが、故郷で命を散らそうとしている母が心配です)と詠み、その心に打たれた宗盛はついに別れを決心するのでした。
母娘は、再会を喜びましたが、母の命は長くありませんでした。まもなく愛する宗盛の戦死と平家滅亡を聞いた熊野は、尼となり静かに生涯を終えました。
熊野が祈りを捧げた庵のあとの行興寺の庭には今も母のために熊野が植えた藤の花が、毎年長い花房をつけています。
(豊田町発行「熊野御前」より)
新居町親水公園を通って進んでいくと、女屋跡(おなやあと)という史跡があります。
橋本宿は、鎌倉時代、東海道の宿として栄えたところで、遊女が多くいたことから花香町(はなかちょう)とも呼ばれた。
ここは橋本宿の長者屋敷の一角と考えられ、建久元年(1190) 源頼朝上洛の際に多数の遊女が群参したことからこの名が付けられたといわれる。長者の娘「妙相」と頼朝の恋物語が残っている。
一説によると、頼朝の家臣が止陣した「御長屋」の跡とか「御納屋」の跡との説があるが定かでない。
平成22年3月 湖西市教育委員会
これを読むと、頼朝はかなりのモテ男だったようですね(゚∀゚)
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