大原の源平史跡(1)熊谷直実腰掛石と鉈捨藪跡
久しぶりに秋の大原を訪ねました。
三千院から勝林院に向かう途中に、熊谷直実腰掛石と鉈捨藪跡があります。
熊谷直実
没年:承元2.9.14(1208.10.25)
生年:永治1(1141)
平安末・鎌倉前期の武士。武蔵国大里郡熊谷郷(熊谷市)の領主,直貞の次男。通称次郎,法名蓮生。2歳で父を失い,叔父の久下直光に養育されたが,直光の代理で大番役に上洛したとき,傍輩の侮辱を受けて憤慨し,平知盛に仕えて都にとどまった。その間に直光が直実の所領を押領したため境相論が発生した。治承4(1180)年4月の石橋山の戦では,平家方として源頼朝を攻めたが,まもなく頼朝の配下となり,11月の佐竹秀義攻撃で抜群の戦功をあげ,本領の熊谷郷の地頭職に補任された。次いで,元暦1(1184)年の宇治川の戦や,一の谷の戦などでも武名をあげるが,特に一の谷の戦で16歳の平敦盛を討ったことは有名で,『平家物語』などは,これがのちに直実が出家する機縁になったという。文治3(1187)年,鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を拒否して,頼朝の不興を買い,所領の一部を没収された。さらに建久3(1192)年叔父直光との境相論の席上,頼朝が直光を支持する気配をみせたことに立腹して,逐電。京都に赴き,法然の門に入り,蓮生と号した。直実の出家の動機をこの所領相論にもとめる説が有力。その直情径行な性格にふさわしく,一心に上品上生の往生を立願して,死期を予言し,予言どおり,端座合掌して高声念仏しながら往生したという。(コトバンクより)
鉈捨藪(なたすてやぶ)跡
文治2年(1186年)の大原寺勝林院での法然上人の大原問答の折に、
その弟子の熊谷直実(蓮生坊)は、「師の法然上人が論議に敗れたなら法敵を討たん。」との思いで袖に鉈を隠し持っておりました。
しかし、上人に諭されて鉈を藪に投げ捨てたと伝えられています。
京都大原里づくり協会
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大原の源平史跡の「熊谷直実腰掛石と鉈捨藪跡」は大昔若い時に一度見ただけでした!!
思い出懐かしく拝見しました。
投稿: tsugo shikata | 2019年12月30日 (月) 06時31分
さすが四方さんはちゃんと見学済みですね!
ここは、下調べしておかないと、見逃してしまいそうですね。
投稿: しずか | 2019年12月30日 (月) 13時17分