大原の源平史跡(6)寂光院 汀の池~汀の桜~姫小松
本堂から見る境内
汀の池
汀の池には、汀の桜と呼ばれる桜と姫小松という松があります。
汀の桜
汀の桜は平家物語の「大原御幸」の中で、後白河法皇が建礼門院に会いに来た際、
池水に汀の桜散りしきて 波の花こそ盛りなりけれ
と詠んだ歌にちなんで名付けられました。
姫小松
姫小松は樹高15メートル余り、樹齢数百年になるものでしたが、平成12(2000)年の火災で枯れてしまい、現在はご神木としてお祀りされています。
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本堂から見る境内
汀の池
汀の池には、汀の桜と呼ばれる桜と姫小松という松があります。
汀の桜
汀の桜は平家物語の「大原御幸」の中で、後白河法皇が建礼門院に会いに来た際、
池水に汀の桜散りしきて 波の花こそ盛りなりけれ
と詠んだ歌にちなんで名付けられました。
姫小松
姫小松は樹高15メートル余り、樹齢数百年になるものでしたが、平成12(2000)年の火災で枯れてしまい、現在はご神木としてお祀りされています。
大原の寂光院は、平清盛の娘・建礼門院徳子が、平家滅亡後に隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られています。
寂光院
天台宗の尼寺で、山号は清香山、寺号は玉泉寺という。推古2年(594)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩薩を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人であった玉照姫で、その後、代々貴族の姫君らが法燈を伝えてきた。
文治元年(1185)9月、平清盛の息女、高倉天皇の皇后である建礼門院徳子が、壇ノ浦で滅亡した平家一門と子・安徳天皇の菩提を弔うため出家、入寺し、終生をこの寺で過ごした。それ以来、後閑居御所、また、高倉大原宮とも称されている。翌文治2年(1186)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸として知られている。
旧本堂は、内陣及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外陣は桃山様式で、慶長8年(1603)に豊臣秀頼が修理したという歴史的に貴重なものであったが、平成12年(2000)5月9日の火災により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。ともに焼損した聖徳太子の作と伝えられる旧本尊・六万体地蔵尊は重要文化財の指定が継続されているが、損傷が甚だしいため、収蔵庫に安置されている。現在の本堂及び本尊は平成17年(2005)6月に焼損前のものを基に忠実に復元されたものである。
京都市(駒札より)
山門 本堂
本堂は、片桐且元が奉行として慶長年間(1596年~1615年)に再興されましたが、2000年(平成12年)に放火で焼失し、現在の本堂は2005年(平成17年)6月に再建されました。その際、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味し、5年の歳月をかけて造られたそうです。
三千院から寂光院に向かいます。
コスモス畑やのどかな田園風景を楽しみながら進んでいきます。
呂川の川沿いに降りてゆく道が、いつの間にか大原女の小径と名付けられていました。
ここまで来ると、人とすれ違うことがなくなります。
三千院はあんなに混んでいたのに、寂光院に向かう人は少ないのかな。
平家物語ゆかりの朧の清水
建礼門院が寂光院への道すがら、月の明かりでこの泉にやつれた姿を映し嘆いたとたといいます。
ところどころに紅葉も見られます。
寂光院まであと少し。
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