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2020年3月

2020年3月31日 (火)

貴船神社(1)紅葉の名所

昨年の秋、久しぶりに貴船神社をお参りしました。

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全国に約450社ある貴船神社の総本社で、地域名の貴船「きぶね」とは違い、水神であることから濁らず「きふね」といいます。

こちらも紅葉の名所として有名で。秋には大勢の参拝客で賑わいます。

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この日はお天気に恵まれ、紅葉も見頃で、境内に広がる紅葉を満喫しました。

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貴船神社
水徳神高おかみの神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。
延喜の制には、名神大社となり、二十二社の一つに列せられた。弘仁九年(818)以来の歴朝の奉幣、祈願がたびたびあり、もっぱら祈雨、止雨の 神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例 であった。江戸時代には賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂 社とされたが、明治以後独立した。かつて社殿は貴船川に沿って上がった所にある現在の 奥宮の地にあったが、天喜三年(1055)、現在地に移転された。
本殿、拝殿、権殿等があり、本殿は文久三年(1863)に改修された。川 に沿って上がると奥の宮がある。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿 の西には船石といって船の形に積んだ石塁がある。和泉式部がお詣りし、 不和となっていた夫と願いがかなって復縁した話はよく知られている。  京都市

 

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2020年3月24日 (火)

大原の源平史跡(10)茶室「孤雲」

寂光院の石段を上がっていくと、苔むした門の奥に、茶室「孤雲」と庭園があります。

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風情ある山門から紅葉に彩られた庭園を楽しむことができます。

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京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材を下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年3月に千宗室宗匠をたのみ献茶式を催し、茶室開きを行った。
「孤雲」のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなむ。(寂光院HPより)

 

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2020年3月17日 (火)

大原の源平史跡(9)寂光院「大原御幸」

大原御幸とは、平氏滅亡後に大原に出家・隠棲した建礼門院後白河法皇が秘かに訪問したとされる故事のこと。

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『平家物語』の灌頂巻にその様子が描かれています。

壇ノ浦の戦いで安徳天皇や一門を失い京都に戻った徳子は、洛東の吉田に隠棲して出家する。しかし、7月9日の大地震で居住していた坊が壊れ、9月には比叡山の北西の麓、大原の寂光院に入った。年が明けた文治2年(1186年)春、後白河法皇は大原の閑居への御幸を思い立つが、2月・3月は風が厳しく寒さも残っていた。夏となり賀茂祭(4月14日)が過ぎた頃、後白河は徳大寺実定・花山院兼雅・土御門通親ら公卿・殿上人・北面武士を引き連れて鞍馬街道を通り大原に向かった。

一行が寂光院に着いた時、徳子は裏の山へ花を摘みに行って留守だった。後白河が「女院自ら花を摘みに行くとは痛わしいことだ」と同情すると、留守を預かっていた老尼が「捨身の修行に身を惜しんではならないのです。現在の運命は過去の因によって決まり、未来の運命は今何をするかによって決まるのですから」と答えた。後白河が感心して「そういうお前は誰だ」と尋ねると、老尼は信西の娘・阿波内侍と素性を明かした。やがて二人の尼が山を降りてきた。徳子と重衡の妻・大納言典侍(藤原輔子)だった。徳子は思いもかけない後白河の来訪に戸惑ったが、阿波内侍に促されて対面した。

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後白河が「天人五衰の悲しみは人間の世界にもあったのですね。ここにはどなたかお見えになりますか」と尋ねると、徳子は「誰も訪ねては来ません。妹の隆房の北の方や信隆の北の方から時々使いが来ることはあります。今は一門と先帝の成仏を祈っています」と答えた。後白河が「人間の世界に転変があるのは今更驚くものではないが、これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない思いがします」と憐れんだのに対して、徳子は自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて語り出した。
(Wikipediaより)

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謡曲「大原御幸」と寂光院:文治2年(1186)4月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びた後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語の潅頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸(おおはらごこう)」にも謡われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り、寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木像や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀(みぎわ)の池などが趣をそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし、謡曲をしのぶことが出来る。
謡曲史跡保存会

 

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2020年3月10日 (火)

大原の源平史跡(8)紫葉漬と大原女の発祥の地

大原は、古来より赤紫蘇が名産で、大原に隠棲した建礼門院が、里人の差し入れた漬物を気に入り、紫葉の漬物「紫葉漬」と名付け、後に大原の里にちなんで、柴の文字を用い「柴漬け」になったといわれています。

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今では、大原を代表する漬物のひとつですね。

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大原女(おはらめ)とは、大原の女子が、薪や柴を頭に載せて京の都で売ることを指します。

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建礼門院に仕えた阿波内侍が山仕事をした時の衣装を模したという伝承があります。

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紫葉漬と大原女の発祥の地

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 平安の昔寂光院に住まわれた建礼門院が,大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物の美味しさに感動され,「紫葉漬け」と名づけられたと伝えられています。
本来,紫葉漬とは夏野菜と赤紫蘇を指します。そして,使われる赤紫蘇は,大原盆地で繰り返し栽培されている為,原品種に近く,香り品質ともに,最上級と言われています。
この赤紫蘇を使って大原で漬けた紫蘇漬は京都府の伝統食品(京つけもの)の認定を受けています。
 また,建礼門院の女官阿波内侍のお姿が,ルーツであると伝わる大原女は,数々の書画や文献に残され,大原伝統文化の象徴として大原観光保勝会が保存に務めています。
 この度の建礼門院の八百年御遠忌に因み,大原のしば漬業者,赤紫蘇に縁のある者が,こぞって建礼門院の遺徳をしのび御恩に感謝の気持ちを表し,記念碑を建立して,後世に伝えるものです。
平成二十五年四月十五日
発起人 大原観光保勝会

 

 

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2020年3月 3日 (火)

大原の源平史跡(7)寂光院 諸行無常の鐘

汀の池に建つ江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。

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あまりにも有名な「平家物語」の冒頭部分が浮かびます。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

『平家物語』第一巻「祇園精舎」より

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鐘身に、宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次であったそうです。

 

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