大原の源平史跡(9)寂光院「大原御幸」
大原御幸とは、平氏滅亡後に大原に出家・隠棲した建礼門院を後白河法皇が秘かに訪問したとされる故事のこと。
『平家物語』の灌頂巻にその様子が描かれています。
壇ノ浦の戦いで安徳天皇や一門を失い京都に戻った徳子は、洛東の吉田に隠棲して出家する。しかし、7月9日の大地震で居住していた坊が壊れ、9月には比叡山の北西の麓、大原の寂光院に入った。年が明けた文治2年(1186年)春、後白河法皇は大原の閑居への御幸を思い立つが、2月・3月は風が厳しく寒さも残っていた。夏となり賀茂祭(4月14日)が過ぎた頃、後白河は徳大寺実定・花山院兼雅・土御門通親ら公卿・殿上人・北面武士を引き連れて鞍馬街道を通り大原に向かった。
一行が寂光院に着いた時、徳子は裏の山へ花を摘みに行って留守だった。後白河が「女院自ら花を摘みに行くとは痛わしいことだ」と同情すると、留守を預かっていた老尼が「捨身の修行に身を惜しんではならないのです。現在の運命は過去の因によって決まり、未来の運命は今何をするかによって決まるのですから」と答えた。後白河が感心して「そういうお前は誰だ」と尋ねると、老尼は信西の娘・阿波内侍と素性を明かした。やがて二人の尼が山を降りてきた。徳子と重衡の妻・大納言典侍(藤原輔子)だった。徳子は思いもかけない後白河の来訪に戸惑ったが、阿波内侍に促されて対面した。
後白河が「天人五衰の悲しみは人間の世界にもあったのですね。ここにはどなたかお見えになりますか」と尋ねると、徳子は「誰も訪ねては来ません。妹の隆房の北の方や信隆の北の方から時々使いが来ることはあります。今は一門と先帝の成仏を祈っています」と答えた。後白河が「人間の世界に転変があるのは今更驚くものではないが、これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない思いがします」と憐れんだのに対して、徳子は自らの人生を振り返り仏教の世界観である六道になぞらえて語り出した。
(Wikipediaより)
謡曲「大原御幸」と寂光院:文治2年(1186)4月、後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びた後、洛北寂光院に隠棲された建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を訪ねられたことは「平家物語の潅頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸(おおはらごこう)」にも謡われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入り、寂光院を尋ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木像や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣、汀(みぎわ)の池などが趣をそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし、謡曲をしのぶことが出来る。
謡曲史跡保存会
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何時も読むと悲運の建礼門院を訪ねる寂光院「大原御幸」ですね!輪廻感じますね!
投稿: tsuguo shikata | 2020年3月18日 (水) 05時54分
四方さん、コメントありがとうございます。
平家滅亡後、大原で余生を過ごした建礼門院様の心情を思うと、侘しくなりますね。
投稿: しずか | 2020年3月18日 (水) 09時42分