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2021年4月

2021年4月25日 (日)

建礼門院徳子ゆかりの長楽寺(3)安徳天皇御衣幡

長楽寺の宝物に、建礼門院が、安徳天皇の直衣を幡に作りかえたという「安徳天皇御衣幡」が伝わっています。

春季特別展には一般公開されており、今回も見学できました。

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長楽寺HPによると、

「安徳天皇御衣幡」
文治元年(1185)五月一日に建礼門院は当時の印誓上人を戒師として剃髪された。

その時に建礼門院は、同年三月に壇の浦で入水されましたが、わが子安徳天皇がいまわのきわまで召されていたと言う形見の直衣を御布施とし、自ら幡に縫われ御菩提を弔われた。平家物語にも記される建礼門院の唯一の貴重な御遺宝であります。


また、織田信長の弟、織田有楽斎(有楽流の茶祖)の孫・長好が、これを納める箱「安徳天皇御幡箱」を寄付したとあります。

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2021年4月15日 (木)

建礼門院徳子ゆかりの長楽寺(2)建礼門院御塔

壇ノ浦での合戦では、安徳天皇を抱いた二位の尼(平時子)をはじめ、平家の女官達が次々と海に飛び込む中、着物の袂に硯などのおもりを入れて飛び込んだ建礼門院徳子は、源氏方によって熊手で長い髪の毛を引き寄せられ、死ぬことも許されませんでした。

平家滅亡後、京に戻った建礼門院は、1185年5月1日、東山の長楽寺で、髪をおろしたといわれています。

長楽寺の建礼門院御塔

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この御塔は古来長楽寺山々後八丁台の景勝の地に建っていたが、明治初年その地が国有林となった為、知事の命で此地に移る。

源平合戦の後、元暦2年(1185)5月1日当寺の阿証房印誓上人につき、御髪をおろされたときの御髪塔とも伝え又、読みもの系平家物語には、貞応2年(1223)鷲尾において69歳で往生の素懐をとげられたとも、また、御遺骨を鷲尾に納めたともあり、その鷲尾が「鷲尾山長楽寺」(旧呼称)を指しているとすればこの御塔は女院の御舎利塔(女院遷化の史蹟)とも拝される。(駒札より)

 

鷲尾という地名は、東山区鷲尾町という町の名前に見られます。

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2021年4月 6日 (火)

建礼門院徳子ゆかりの長楽寺(1)

京都市東山区にある長楽寺を久しぶりに訪ねました。

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寺伝によると、長楽寺は、延歴24年(西暦805)桓武天皇の勅命によって、伝教大師を開基として大師御親作の観世音菩薩を本尊として創建されました。


当初は、比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、その後室町時代の初期当時の一代の名僧国阿上人に譲られ時宗(宗祖一遍上人)に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった名刹七条道場金光寺が当寺に合併されました。


もともと円山公園の大部分を含む広大な寺域を持っていましたが、大谷廟建設の際、幕命により境内地を割かれ、明治初年、境内の大半が円山公園に編入され今日に至っています。

御本尊准胝観世音菩薩は、伝教大師入唐の際、海上俄に暴風起り、船まさに破れんとした時、大師舳にすすみ、除難のため三宝の救護を祈願し給うに、忽然として光明照耀して、二頭の竜神その頭に准胝観世音を奉戴して、大師の船側に近づき、観世音菩薩大師の御衣の袖に飛び移り拾うと覚えて、風波鎮まり無事御帰朝の後、この海上示現の尊像を自ら刻んで当寺の本尊として奉安し給うもので、霊験たぐいなく、古来勅願所として歴代天皇の御帰依深く、勅封の秘仏として奉安せられ、歴朝の御即位式及び御厄年のみに御開帳される秘仏です。

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長楽寺の現在の本堂は、寛文6年(1666)に造影された愛宕郡西賀茂村(現在の北区西賀茂)の正伝寺仏殿を、明治23年(1890)に購入して移築したものである。
正伝寺における造営は、日記によると、寛文6年正月13日に「佛殿斧ノ初」とあり、この時に木工事を始めたことがわかる。大工は「北山新蔵」であった。 その後、同年3月18日に「柱立」、3月22日に「梁上」と工事が進んでいる。 建物は、桁行3間・梁行3間の身舎(木屋構造)の四周に庇状構造の裳階が付く禅宗様の仏殿である。内部は身舎を格天井、裳階部を化粧屋根裏とし、床は土間とする。柱は全て丸柱で、石造の礎盤の上に立つ。身舎の柱筋の上には組物を蜜にして、入母屋造・本瓦葺の屋根をのせる。須弥壇前の2本の柱は、身舎背面側の柱筋より半間ほど前方に立ち、背面上部は透かし彫りの欄間をはめる。 この本堂は、建築年代が明らかであり、京都市内では数少ない本格的な小規模禅宗様仏殿の遺構として貴重である。     
 京都市(駒札より)

 

長楽寺HP参照

 

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