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2021年5月

2021年5月26日 (水)

建礼門院徳子ゆかりの長楽寺(6)建礼門院徳子法尼尊像

建礼門院御落飾時の御影は、極めて貴重な資料とされていますが、古いために、顔面も落剥して、常時展観に展示することが危ぶまれるため、これを複製して木像に彫刻したものです。

 

建礼門院徳子法尼尊像
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2021年5月15日 (土)

建礼門院徳子ゆかりの長楽寺(5)建礼門院御影

平氏は元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡。

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『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込みましたが、渡辺昵に救助され、平宗盛・平時忠らと京都に護送されました。宗盛は斬首、時忠は配流となりましたが、徳子は罪に問われることはなく、洛東の吉田の地に隠棲、長楽寺にて、5月1日出家されました。

 

建礼門院御影

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時に御年29才。その時の御影で、建礼門院の御影の古いものは他に類をみず、源氏の目をはばかり、墨を塗り隠しまつられてみたものです。

(画像:長楽寺HPより)

 

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2021年5月 5日 (水)

建礼門院徳子ゆかりの長楽寺(4)相阿弥作の園池

長楽寺のこの庭園は、室町時代、相阿弥が足利八代将軍・足利義政の命により銀閣寺の庭を作る際、試作的に作ったと伝えられています。

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苑内に東山(長楽寺山と言う)をとりいれ山腹より湧き出づる滝の水を落として苑池となし「築山庭造伝」(享保二十年1735)にも「庭の景すぐれて自然の趣のあるすがた」とたたえられています。

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相阿弥(そうあみ、生年不明 - 大永5年10月27日(1525年11月12日))は室町時代の絵師、鑑定家、連歌師。姓は中尾、名は真相(しんそう)、号は松雪斎・鑑岳。父は芸阿弥、祖父は能阿弥。

祖父・父に引き続いて足利将軍家に同朋衆として仕え、唐物奉行も務めた。阿弥派の絵画の大成、書院飾りの完成、書画の管理・鑑定、造園、香、連歌、茶道など多方面で活躍した。狩野正信に対して画題・画本の選択や画事の相談を行なったりもしている。更に正信の子・狩野元信は、墨の調子を相阿弥に学ぶべきだと忠告されたとの話もある。

画家としては三条西実隆『実隆公記』や景徐周麟『翰林葫蘆集』でその活躍が記され、「国工相阿」と称されている。また『翰林葫蘆集』には相阿弥の描いた書斎図に題して、「(原叔首座が)国工相阿に絵んこを請い、且つ又予に就て賛詞を求む」とある。一般に五山文学において、絵師に画を求める時の常套的な表現は「工に命じて」描かせるというもので、絵師の名さえ記されないのが通例である。それに比べ、ここでの「我が国の名画工相阿弥に頼んで描いて貰った」という表現は、非常に丁寧であり、相阿弥の画技は一般の職業画工より高いランクが与えられていたことがわかる。弟子に単庵智伝がいる。

鑑定家としての側面を見ると、『蔭涼軒日録』には相阿弥が唐物の値付けをしている記述が頻出する。応仁の乱以降、東山御物の名品が市場に流出し、堺の豪商や町衆たちの手に渡るといった流行が起きており、相阿弥もこうした時流に直接関わっていったと想定できる。永正8年(1511年)には150人ほどの中国画家列伝と座敷飾りの図入り解説、香合や茶碗などの唐物の説明から成り立つ『君台観左右帳記』、大永3年(1523年)には座敷飾りの方式をまとめた『御飾記』を著した。大永5年(1525年)10月27日死去。享年は70前後とされる。
(Wikipediaより)

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