深谷の清心寺(2)平忠度の供養塔
平 忠度(たいら の ただのり)は、平安時代の平家一門の武将。平清盛の異母弟。
天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも)。紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。
治承2年(1178年)従四位上。治承3年(1179年)伯耆守。治承4年(1180年)正四位下・薩摩守。
一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死した。『平家物語』によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られた。忠度は明石を経て現在の兵庫県神戸市長田区へ向かい、そこから逃走用の船を得ようとしたが途中で忠澄に討たれた。
忠度が討たれた際、「文武に優れた人物を」と敵味方に惜しまれたという。戦後、忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市にある深谷駅南口の清心寺に供養塔を建立している。(Wikipediaより)
一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥忠澄は、故郷岡部に戻り、忠度の菩提を弔うため、忠澄の領地の中で、一番景色の良いところに供養塔を建立しました。
駒札によると、その後、約350年後にこの清心寺が建てられたことになるようです。
清心寺の門をくぐると、左手に「平忠度公墓」と書かれた廟所があります。
右には五輪塔、左の碑は上部が欠けているようです。
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