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2021年7月 5日 (月)

深谷の岡部六弥太忠澄の墓

次は、深谷市普済寺にある岡部六弥太忠澄の墓を紹介します。

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こちらは、忠澄だけでなく、岡部一族の墓所になっています。

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岡部六弥太忠澄は、猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が岡部の地に館を構えたのを機に岡部氏と称するようになりました。

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忠澄は、治承・寿永の乱の際には、源氏方につき出兵しています。

特に一の谷の戦いで、平家の平忠度を討った場面は、平家物語にも登場します。

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五輪塔が6基並んでおり、全体像を一度に見ることができなのですが、中央の最も大きいものが忠澄のものとされています。

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向って右側が父・行忠の墓 

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左側が、夫人・玉の井の墓といわれているようです。

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保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍した。源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、治承4年(1180年)に義朝の遺児源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなった。木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形勢が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。この話は『平家物語』を典拠とする話である。

平家滅亡後は源頼朝に従い、その御家人として奥州合戦や頼朝の上洛にも付き従った。建久8年(1197年)没。墓所は深谷市普済寺隣りの公園にある。夫人や他の岡部一族と共に埋葬されている。ただしこの墓は藤原助重のものだという見解もある。この墓地には石塔が六基あり、右から二番目のものが忠澄の墓とされている。

平忠度を討ち取った忠澄であったが、忠度の死を惜しみ、その霊を慰めるために所領の岡部原に五輪の塔を建立した。その後、五輪の塔は慶安2年(1649年)に、清心寺(深谷上杉氏家臣岡谷清英創建)に移築された。ただしこの五輪の塔から出土した遺物及び五輪の塔の形状から、これらは忠度や忠澄の生きた平安末期から100年ほど経過した後に建築されたものではないかとも考えられている。(Wikipediaより)

 

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