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2021年11月 8日 (月)

「岩淵の渡船場跡」を訪ねて(2)

日光御成道の最初の宿場町・岩淵宿から、川口宿に向かうための渡船場があり、奥州との交通の拠点として古くから利用されていました。

義経記」によると、源義経は川口からこの渡しを渡り、岩淵本宿を通り板橋へ抜けたといいます。

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岩淵の渡船場跡

 この辺りに、岩淵宿から荒川を渡り、川口宿に向かうための渡船場(とせんば)がありました。江戸時代、ここが川口宿の飛地であったことから「川口の渡し」とも呼ばれていました。

渡船場は、奥州との交通上の拠点として古くから利用されており、鎌倉幕府を開いた源頼朝の挙兵に合わせて、弟の義経が奥州から参陣する途中、ここを渡ったといわれています。また室町時代には、関所が設けられ、通行料は鎌倉にある社の造営や修理費などに寄進されました。

 江戸時代、ここを通る道は、日光御成道と呼ばれる将軍の日光東照宮参詣の専用道として整備されました。渡船場も将軍専用と一般用に分かれており、将軍が参詣のために通行する際は仮橋として船橋が架けられました。船橋は長さ65(117m)、幅3(5.4m)です。

一般の渡船場は、人用の船と馬用の船が一艘ずつ用意されていました。渡船の運営は岩淵宿と川口宿が隔日で勤めてきましたが、大名の通行などの際、近隣村で現在の北区内の下村・浮間村、埼玉県戸田市の早瀬村の三ヶ村も勤めることになっていました。また、対岸の河原にある川口善光寺が、名所として参詣者で賑わうようになり、開帳中は船橋が架けられたほどだそうです。

 渡船場は、明治以降も利用され、明治38(1905)3月からは常設の船橋が架けられました。しかし交通量が増大するにつれて、船橋では対応できなくなり、昭和3(1928)9月、少し下流に新荒川大橋が開通すると、その役割を終え、船橋は撤去されました。

平成282月  東京都北区教育委員会

 

歌川広重が描いた岩淵の渡船場
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