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2022年1月

2022年1月23日 (日)

三井寺の弁慶の引き摺り鐘

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市にある、天台寺門宗の総本山で、山号は長等山(ながらさん)。三井寺という通称を持ちます。

 

広い境内の中に、弁慶ゆかりの鐘があります。

 

弁慶の引き摺り鐘

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俵藤太こと藤原秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという伝承があります。(^_^;)


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鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものだと。(@_@;)

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しかし、史実では、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたものだそうです。


弁慶の汁鍋

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こんな大きな鍋で?(@_@;)

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弁慶については、豪快なエピソードが付き物ですね!

 

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2022年1月16日 (日)

三島の妻塚観音堂

東本町1丁目の妻塚観音堂は、平家一族である大庭景親(おおばかげちか)の妻が祀られた祠だと言われています。

 

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源氏再興の祈願に三嶋大社に通う源頼朝の暗殺の命を受けていた景親は、ある日夕闇の中に人影を見つけ、頼朝と思って斬りつけました。
しかし、よく見ると斬り殺した相手は、頼朝ではなく自分の妻だったのです。
妻は、源氏に縁がある家に生まれたため、夫を思い止まらせようとしましたが、聞き入れてもらえず、自分が身代わりになるため、夫を待ち受けていたのでした。 妻を殺してしまった景親は、嘆き悲しみ、妻の冥福を祈るためにこの祠を建てたと言われています。

 

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2022年1月 4日 (火)

平清盛の邸宅跡・西八条第跡

2012年のことですが、平清盛の広大な邸宅があった西八条第跡を追って歩いてみました。

 

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現在、西八条第跡は、京駅からほど近い梅小路公園となっており、市民の憩いの場となっています。 

今ではこの中に京都水族館ができて人気スポットとなっていますね。

西八条第は、平家一門の邸宅群のあった場所で、それを総称して「西八条第」(「八条亭」とも)と呼びました。

清盛だけではなく、他の平家一門もここに邸宅を構えていました。
平安京左京八条一坊の東を大宮大路、西を坊城小路、北を八条坊門小路、南を八条大路で囲まれた区域にありました。広さは一般に6町(八条一坊五町・六町・十一町・十二町・十三町・十四町)とされますが、一時期は八条一坊三町含む7町あったとする説もあります。

現在の地名では、下京区の観喜寺町、八条坊門町、南区の八条坊門町、八条町に当たり、梅小路公園の「芝生広場」やJRの線路などに重なります。梅小路公園は平安建都1200年を記念し、1995(平成7)年オープンしましたが、埋蔵文化財の発掘調査で、西八条第の一部とみられる遺構が発見されました。このため、公園敷地には京都市営地下鉄(東西線)などの工事で生じた残土を盛り(厚さ約1.5縲怩Um)、遺構を壊さないよう造成が行われました。
(京都市都市緑化協会サイトより)

私はこの梅小路公園を今まで三度訪れているのですが、その時はこの案内板を見つけることができず、この時、やっと見つけることができました。

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河原遊び場付近にあります。

 

朱雀の庭入口

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また朱雀の庭には、この石碑があるそうです。

Photo

(京都市都市緑化協会サイトより)

 

出家後の清盛は、摂津福原(神戸市兵庫区)にいることが多かったので、清盛の妻の時子がここを守っていたそうです。
養和元年(1181)閏2月4日、清盛が64歳で没した2日後、放火による火災に遭い、寿永2年(1183)7月25日、平家一門が木曽義仲によって平安京から追われる際に、自ら火を放ち、邸宅は残すところなく焼失しました。

 

西八条第跡

西八条第は八条亭とも呼ばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅で、仁安(にんあん)元年(1166)頃に造営されたとする。
その跡地は下京区歓喜寺町・八条坊門町、南区八条坊門町・八条町に当たる。
「平家物語」によると、清盛が邸内の庭に蓬(よもぎ)を植えたところから蓬壷(ほうこ)とも呼ばれ、白拍子(しらびょうし)妓王(ぎおう)・妓女(ぎじょ)や仏御前(ほとけごぜん)の物語もこの邸宅での話しである。
清盛は仁安2年(1167)に太政大臣(だじょうだいじん)の位(くらい)を退いてから摂津福原(せっつふくはら)(神戸市兵庫区)に居を移したが、妻の二位尼(にいのあま)時子(ときこ)はここに住み、邸内に光明心院(こうみょうしんいん)を営んでおり、また、清盛も入洛の折はこの邸宅を使用している。
清盛は、安元(あんげん)3年(1177)6月の鹿ケ谷(ししがだに)山荘事件の後、この邸宅でその処分を決めている。
また、「山槐記(さんかいき)」によると、治承3年(1179)12月16日、高倉天皇中宮で、清盛の娘である建礼門院徳子(けんれいもんいんのりこ)が生んだ2歳の東宮(とうぐう)(皇太子)言仁(ときひと)親王(後の安徳天皇)がこの西八条第に行啓(ぎょうけい)し、清盛は終日微笑みを絶やさず、指を湿らし障子に穴をあけ、孫と戯(たわむ)れて感涙(かんるい)にむせんだとされる。
治承(じしょう)5年(1181)閏(うるう)2月4日に清盛は64歳で没し、その2日後、この邸で火災が発生した。「平安物語」巻六によると「玉を磨き金銀をちりばめて作られたりし西八条殿、其夜(そのよる)、にはかに焼けぬ。・・・放火とぞ聞こえし」と記され、大小50余りの建物が焼けたとされる。
「玉葉(ぎょくよう)」によると、のちに再建された建物も、寿永(じゅえい)2年(1183)7月25日、平家の都落ちに際して自ら火が放たれ邸宅は残すところなく灰燼(かいじん)に帰した。
文治(ぶんじ)元年(1185)、壇ノ浦(だんのうら)の合戦において安徳天皇は水死、平家はここに滅亡して、約400年間続いた平安時代は終わりを告げる。
西八条第跡の調査は、公園整備前の平成4・5年の春に行われ、柱跡や溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や炭化遺物も出土しており、西八条第で火災があったことを裏付けている。
なお遺跡は盛土して保存されている。(案内板)

 

ここを歩いていた時、ゲリラ豪雨に見舞われ、稲光する中を歩いていました。
傘を差していたので、今思うととても危険な行為でした(^_^;)

 

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