源氏ゆかりの谷ヶ堂最福寺
京都の松尾大社から鈴虫寺に向かう途中に、源氏ゆかりのお寺があります。
谷ヶ堂最福寺は、高僧・延朗上人が建立した寺院です。
延朗上人は、但馬の国養老郡の生まれで、八幡太郎源義家四代の孫といわれ、源義経や源頼朝の従伯父にあたる人です。
比叡山で天台密教を修めて、安元2年(1176)松室の地に、本尊を阿弥陀如来とする天台宗の寺、最福寺を創建しました。
その後、義経が、さらなる寺の興隆を願い、丹波国亀岡篠村施入を強要したので、やむなく上人がこれを受けたといいます。
平治、元弘、応仁、元亀の乱などの度重なる戦乱により、大伽藍を誇った最福寺は焼失してしまい、伽藍は再建されず、再建された延朗堂のみが残っています。
延朗(えんろう、大治5年(1130年) - 承元2年(1208年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶。対馬太郎源義信の長男。松尾上人と号す。
大治5年(1130年)但馬国に生まれる。幼名を徳寿丸といい、長じて小太郎義実を名乗る。天養元年(1144年)、15歳で出家。以降、延暦寺や園城寺にて天台宗を学び、顕教・密教両面の内典・外典に通じた碩学(せきがく)ぶりをもって知られた。安元2年(1176年)には、京都・最福寺の創建を果たし、同寺のあった地名にちなんで松尾を号とした。
文治年間、元は平重衡の所領であった丹波国篠村庄を賜った源義経の申し出により、同庄の寄進を受ける。初めは固辞した延朗であったが、いったん引き受けた後は、領内の農民の年貢を停止し、代わって念仏を奨励し、その唱えた回数に応じて年貢の受け取り状を交付した。義経が朝敵として追われた後は、源頼朝に同庄の返上を申し出るが、それには及ばないとされ、文治2年(1186年)、頼朝の使者豊島有経を通じて、改めて同庄を賜った。
承元2年(1208年)、79歳にして入寂した。(Wikipediaより)
「平治・元弘・応仁・元亀の乱 戦火ゆかりの地」
平治の乱の後は、源氏がゆえ、平清盛に追われ各地を遊歴したそうです。
本堂の右手にはさしのべ観音や六体地蔵などがあります。
六体地蔵
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