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2022年5月

2022年5月30日 (月)

北陸の旅(7)気多神社

伏木一宮にある気多神社

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社伝によると、718年に行基が創建したという説、757~765年に能登の気多神社から勧請したという説があります。

また、1183年、木曽義仲が兵を率いて越後から越中国府に入り、兵を集めた際の兵火で本社を除き、末社などの堂舎が消失した。

1187年、義経主従が奥州から北陸道に入り、如意の渡しを過ぎて行った。

1570年、上杉謙信のへ兵火により当社が焼失した。

1654年、前田利常が当社を崇敬し、再興した。

と伝えられています。

義経主従が奥州に下る際、気多神社に参詣した時の痕跡とされる伝承があります。

本殿の床にある足跡のような模様が弁慶の足跡、柱のくぼみが弁慶のこぶし跡と伝えられています。

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本殿には入ることが出来なかったので、足跡は確認できませんでしたが、柱のくぼみはわかりました。


気多神社の境内にある大伴神社

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昭和60年に大伴家持没後1200年を記念して建てられました。

家持は越中守として赴任した5年間に224首の歌を詠んだとされています。

境内に家持の歌碑がありました。

馬並めて いざうち行かな 渋谷の 清き磯みに 寄する波見に

 

 

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2022年5月20日 (金)

北陸の旅(6)弁慶謝罪の地

石川県能美市の道林寺跡には弁慶謝罪の地として、義経と弁慶の像があります

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1187年2月10日、弁慶と富樫の問答により、無事に安宅の関を通り抜けた義経主従。

弁慶は主人を金剛杖で打ったことをこの地で心より謝罪しました。

義経は「機知の働きは天の加護」とその忠誠心を厚くねぎらったといいます。

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2022年5月16日 (月)

北陸の旅(5)尼御前岬

石川県加賀市美岬町にある日本海に面した尼御前岬は、越前加賀海岸国定公園内にあり、海食台と断崖からなる奇勝で知られています。

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奥州を目指す義経一行にいた尼が安宅の関の取調べの厳しさを聞き、足手まといになることを憂い、主君の安泰を願って、岬から身を投げたという悲話が伝えられています。

江沼郡誌によると古くは「尼子瀬」とも書き、あまごせと読ませたそう。


北陸自動車道尼御前SAからは遊歩道が整備され、岬には尼御前の像があります。

 

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2022年5月 9日 (月)

北陸の旅(4)多太神社と謡曲「実盛」

謡曲「実盛」は世阿弥の修羅物で、実盛の霊が200余年経っても浮かび切れず、遊行上人の説法を聴聞し、念仏往生を頼んで消え去ったという伝説と篠原の戦いを脚色してあります。

謡曲の中で実盛は、最後は大将の木曽義仲と戦うつもりだったのに、家来の手塚太郎に討たれてしまったことが悔しいと語ります。

JR小松駅から徒歩20分ほどのところある多太神社には手に鏡を持ち、白髪を染める実盛の像があります。

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多太神社には、義仲が奉納した実盛の兜、大袖、臑当が宝物館に収蔵されています。

実盛の兜の重さは4.4kgとかなり重いことから実戦用ではなく、大将の印に陣屋に飾るものであったのではないかとされています。

普段は宝物館の見学は予約が必要ですが、7月下旬の「かぶと祭り」では一般公開しているそうです。

 

実盛の兜・・・義仲が願状を添えて奉納したと伝えられている。
        高さ15.2cm、鉢廻り71.2cm、総体廻り139.4cm、重さ4.4kg

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*この写真はNHKBSの番組で実盛の兜が紹介された時のものです。

 

実盛の首だと確認した樋口次郎は、「あなむざんやな 斉藤別当で候ひけり」と涙を流しました。

実盛の死後、500年経ってから、芭蕉がここを訪れ、

むざんやな 甲の下の きりぎりす

と句を詠んでいます。

この句は当初「あなむざんやな」から始まっていたのですが、後に芭蕉が調子を整えるために「あな」省いたそうです。

あな・・・「ああ」 強い感動を表す語。  

また、芭蕉は実盛の兜を見て、

目庇(まびさし)より吹返しまで、菊のから草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり

と賛美したといいます。

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多太神社の境内には芭蕉の句碑の他に芭蕉像もあります。

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多太神社は6世紀初め、武烈天皇の5年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請による古社である。平安時代初期には延喜式(平安時代中期に編纂された格式)に記載されている式内社である。延喜式神名帳に記載のある神社を式内社と言い、社格の一つとされ、当時、朝廷から重要視された神社であった。
1008年には船津松ヶ中原にあった八幡宮を合祀して多太八幡宮と呼ばれるようになった。
加賀藩三代藩主・前田利常が社地を寄進。歴代の加賀藩主が崇敬し、神領や社宝を奉納したという。

 

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2022年5月 3日 (火)

北陸の旅(3)実盛塚

首洗池から1kmほどのところに実盛の墓と伝えられる「実盛塚」があります。

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1414年、時宗の14世紀遊行上人が篠原古戦場近くの道場で布教している時、実盛の亡霊に会い、卒塔婆を書いて霊を慰めたという。これが世阿弥の謡曲「実盛」のモチーフになりました。

(「義経伝説 南加賀の旅」より)

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生垣に囲まれた立派な黒松は、最期まで立派に武士として戦った実盛を表すよう。

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与謝野晶子が、ここで

「北海が盛りたる砂に あらずして 木曽の冠者が きづきたる塚」

という歌を詠んでいます。

 

*実盛塚の前では毎年8月20日からの片山津温泉湯祭りの際、供養際をし、地元の女子中学生が白装束で「篠原慕情」を踊るそうです。

 

 

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