« 北陸の旅(3)実盛塚 | トップページ | 北陸の旅(5)尼御前岬 »

2022年5月 9日 (月)

北陸の旅(4)多太神社と謡曲「実盛」

謡曲「実盛」は世阿弥の修羅物で、実盛の霊が200余年経っても浮かび切れず、遊行上人の説法を聴聞し、念仏往生を頼んで消え去ったという伝説と篠原の戦いを脚色してあります。

謡曲の中で実盛は、最後は大将の木曽義仲と戦うつもりだったのに、家来の手塚太郎に討たれてしまったことが悔しいと語ります。

JR小松駅から徒歩20分ほどのところある多太神社には手に鏡を持ち、白髪を染める実盛の像があります。

1_20220509170501 2_20220509170501

多太神社には、義仲が奉納した実盛の兜、大袖、臑当が宝物館に収蔵されています。

実盛の兜の重さは4.4kgとかなり重いことから実戦用ではなく、大将の印に陣屋に飾るものであったのではないかとされています。

普段は宝物館の見学は予約が必要ですが、7月下旬の「かぶと祭り」では一般公開しているそうです。

 

実盛の兜・・・義仲が願状を添えて奉納したと伝えられている。
        高さ15.2cm、鉢廻り71.2cm、総体廻り139.4cm、重さ4.4kg

3_20220509170501

*この写真はNHKBSの番組で実盛の兜が紹介された時のものです。

 

実盛の首だと確認した樋口次郎は、「あなむざんやな 斉藤別当で候ひけり」と涙を流しました。

実盛の死後、500年経ってから、芭蕉がここを訪れ、

むざんやな 甲の下の きりぎりす

と句を詠んでいます。

この句は当初「あなむざんやな」から始まっていたのですが、後に芭蕉が調子を整えるために「あな」省いたそうです。

あな・・・「ああ」 強い感動を表す語。  

また、芭蕉は実盛の兜を見て、

目庇(まびさし)より吹返しまで、菊のから草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり

と賛美したといいます。

4_202205091705016_20220509170601

多太神社の境内には芭蕉の句碑の他に芭蕉像もあります。

5_20220509170501

9_20220509170601

多太神社は6世紀初め、武烈天皇の5年に男大跡(オオトノ)王子(後の継体天皇)の勧請による古社である。平安時代初期には延喜式(平安時代中期に編纂された格式)に記載されている式内社である。延喜式神名帳に記載のある神社を式内社と言い、社格の一つとされ、当時、朝廷から重要視された神社であった。
1008年には船津松ヶ中原にあった八幡宮を合祀して多太八幡宮と呼ばれるようになった。
加賀藩三代藩主・前田利常が社地を寄進。歴代の加賀藩主が崇敬し、神領や社宝を奉納したという。

 

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

 

« 北陸の旅(3)実盛塚 | トップページ | 北陸の旅(5)尼御前岬 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 北陸の旅(3)実盛塚 | トップページ | 北陸の旅(5)尼御前岬 »

2022年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ