蒲神明宮 源範頼ゆかりの蒲桜
源範頼(みなもと の のりより)は、源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。母は遠州池田宿の遊女。
遠江国蒲御厨(かばのみくりや 現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれました。
その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗りました。
藤原範季
平安末・鎌倉前期の公卿。従四位下能兼の子。兄範兼の猶子となる。後白河院の近臣で,九条兼実にも仕えた。姪の範子と共に,高倉天皇の皇子尊成(後鳥羽天皇)を養育し,その即位にもかかわっていた。源頼朝の弟範頼を養子として育てたことから,武士の動向にも通じていたが,文治2(1186)年11月,源義経にくみしたことで解官された。娘重子(修明門院)が後鳥羽天皇との間に守成(順徳天皇)を生んだ直後の建久8(1197)年12月,後鳥羽天皇の侍読の労として従三位に叙され,さらに従二位に至ったが,政治的な活動はみられない。死後,順徳天皇の即位によって,左大臣正一位を追贈された。(コトバンクより)
浜松市東区神立町に鎮座する蒲神明宮の開創は、約1100年昔の清和天皇(第56代)貞観年中以前。
藤原鎌足十世の孫、越後守静並(えちごのかみしずなみ)が伊勢神宮の神託を受け、この蒲の地を開拓し、美田(みた)550町歩(ちょうぶ)を神宮に寄進し蒲御厨(かばみくりや)となし、神明宮を創設したと伝えられています。以来、静並の子孫が神官と御厨(みくりや)の支配者を兼任し、蒲氏(かばし)を名乗りました。
明治6年、蒲神明宮と改称され今日に至っています。
鎌倉、室町時代将軍家からの下知状等、古文書39通が現存しているそうです。
蒲桜伝説
今から800年前、この地で育てられた源範頼は、兄である頼朝の挙兵に応じて関東に向かうとき、大好きだった桜の苗木を持参し自分の城に植えた。これを蒲桜という。埼玉県の北本市にあって、石戸の蒲桜ともいう。範頼公は平家追討の副大将として上洛の途上、三重県鈴鹿市の石薬師に立ち寄り戦勝祈願をした。その時、蒲桜でできた鞭(むち)を逆さに立て「もし戦いに勝ったなら、きっと生きよ」と大地にさした。幸い、源氏の大勝利に、この蒲桜が芽をふき、それが今に至ったと伝えられる。「石薬師蒲桜」であり、これも蒲神明宮に里帰りした。(駒札より)
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