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2022年7月

2022年7月27日 (水)

源範頼の別荘地「龍泉寺」(2) 本堂

龍泉寺の本堂
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しかし、建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟の仇討ちにより、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、範頼は北条政子に「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた発言が源頼朝に謀反の疑いを招き、け伊豆修禅寺で自刃に追い込まれたといいます。その際、範頼が愛馬が、範頼の首をくわえ、範頼の別荘のあった龍泉寺まで走り続け、池のまわりを三回まわって倒れたと伝えられています。

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蒲冠者源範頼公桜
稲荷山龍泉寺のあるこの辺りは平安時代蒲氏の別荘地でした。
源範頼公(1154~1193)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で
「蒲御厨」(旧蒲・和田・飯田の範囲)で生まれ育ちました。
範頼公ゆかりの桜が埼玉県北本市東定寺(天然記念物石戸蒲桜)と
三重県鈴鹿市上野町の御曹司桜(石薬師蒲桜)にあります。
平成十五年二月九日上野町の方々のご厚意により
「石薬師蒲桜」の苗が範頼公の古里に移植されました。
龍泉寺に植えられたこの桜を「範頼公」と命名し、
範頼公とともに当地で愛されるようにと願っています。
平成十五年八月二十四日範頼公没後810年記念(碑文より)


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2022年7月19日 (火)

源範頼の別荘地「龍泉寺」(1) 範頼桜

浜松市南区飯田町の稲荷山龍泉寺のあるこの辺りは平安時代、源範頼の別荘地でした。

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この境内は源頼朝公の弟、範頼公の別荘地であった。
当時京都の稲荷神社から稲荷明神を迎えお祠りしていた。
その後、享徳3年(1254)この別荘地を寺とし、稲荷山龍泉寺と称した。
以後、範頼公を寺の開基として境内の南東に供養塔(五輪塔)を建立し奉祠している。
この塔から50m南には、範頼公の愛馬を葬った駒塚がある。
また、境内北西には範頼公近臣 勝間田五郎の冑中守本尊摩利支尊天をお祠りしてある。
本堂前には平成15年8月24日範頼公没後810年を機に範頼公ゆかりの桜御曹司社「石薬師蒲桜」の幼苗が三重県鈴鹿市上野町から贈られ、「範頼桜」と命名され定植されている。(駒札より)

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幼い頃を蒲神明宮(浜松市東区)で過ごした範頼は、兄の頼朝の挙兵後、弟の義経とともに西国で平氏追討の任につき、平氏滅亡後は九州の経営に当たりました。

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2022年7月 9日 (土)

源範頼の末裔の屋敷

浜松市雄踏町に一般公開されている中村家住宅という重要文化財があります。

中村家の初代・中村正範(まさのり)は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んだ。1481年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠国江磐田郡に領地を賜り、1483年に宇布見に屋敷を構えた。


1574年には徳川家康の側室・お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣塚が庭にある。


以降、中村家は今切軍船兵糧奉行や代官を勤めてきた。


31代幸八は昭和24年から衆議院議員として長く政界で活躍した。(中村家パンフレット参照)

1524年2月8日、徳川家康の次男(幼名・於義丸、後の結城秀康)がこの中村家で生まれました。

庭には、秀康の胞衣塚が残されています。

母親は家康の側室・お万の方で、出産時の胞衣をこの胞衣塚に埋めたといいます。

また、胞衣塚上の梅は家康のお手植えと伝えられ、数代を経ているそうです。


1884年、越前松平一門家が塚の由来を記した胞衣塚碑を建立しました。



中村家住宅
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胞衣塚
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家康お手植えの梅
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胞衣塚がある中村家とは?

1568年、家康が遠江に入国した時、中村家18代正吉は船を出して迎えたり、徳川家に仕え、今切軍船兵糧奉行や代官を勤めていました。
こうした関係から家康の正室・築山御前を恐れたお万の方が、於義丸を浜松城でなく、ここ中村家の屋敷で出産しました。

中村家住宅は、1483年に建てられ、平成13年から解体修理、復元されて、現在一般公開されています。

長屋門
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天井
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かやぶき屋根
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主屋の内部
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2022年7月 1日 (金)

浜松の源範頼別邸御茶屋跡

寿永2年(1183)頃の蒲の冠者・源範頼は、佐鳴湖北岸に別邸を設け、茶の湯などの清遊をしたことから、「御茶屋」という名がついていました。

春の佐鳴湖
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佐鳴湖に注ぐ新川に架かる「御茶屋橋」から100mほどのところ富塚町安座の民家の庭先に、「史蹟 源範頼別邸御茶屋跡」の案内板、石柱、カバザクラがあります。

御茶屋橋
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数年前に取材させていただきました。

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史蹟 源範頼別邸御茶屋跡
平治元年(1159年)、平治の乱に敗れた源義朝は、再起を期し尾張国野間の長田忠致を頼り逃れて来たが、忠致に誅殺される。
義朝の六男範頼は久寿元年(1153年)に生まれ、遠江国蒲御厨蒲神明宮の神官藤原範季の許で秘かに養育されていたが、やがて元服し、蒲冠者源範頼と名乗る。寿永年間範頼はこの地に別邸を設け、南の佐鳴湖より涼風を迎えお茶の湯をたてて楽しんだ故事からその名を「御茶屋」と呼んだ。
範頼はやがて挙兵した兄頼朝と対面し、平家追討に戦功を挙げたが、平家滅亡後は次第に頼朝の疑心が深まり、建久4年(1193年)ついに伊豆修善寺にて幽閉される悲運となった

(正面向かって左面)
〇〇記念大正13年10月富塚村安座 と刻印あり。
浜松観光ボランティアガイドの会

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しかし、本当の別邸の跡は、こちらのお宅の筋向いにある梅の木の辺りだと民家の奥さんに教えていただきました。

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