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2022年9月

2022年9月22日 (木)

頼政塚

一昨年の秋、京都府亀岡市頼政塚を訪ねました。

頼政塚は、現在の亀岡市西つつじヶ丘の小高い丘に建てられたの源頼政の首塚です。

宇治で戦死した頼政の遺骸がここに埋められた理由として、丹波矢田郷が彼の領地の中で最も宇治に近かったからといわれていますが、はっきりとしたことは不明なのだそう。

江戸時代に近辺の僧侶が存在を疑って塚を掘り起こしてみたところ、石棺があったといわれていいます。

亀岡市篠町浄法寺の国道9号線に頼政塚の交差点があり、京阪京都交通にも頼政塚バス停があります。

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源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。清和源氏としては初めて従三位に叙せられた。後世においても、源三位(げんざんみ)の通称が伝わる(同時代的に「源三位」と称された人物は頼政に限らない。)。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。

保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され推挙により、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。

しかし、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した。(Wikipediaより)

 

階段を上ると大地主大神が祀られています。

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さらに階段をのぼると、頼政塚があります。

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 頼政塚
 源頼政は、兵庫県川西市周辺に広がる摂津多田庄を本拠とする源満仲の長男で、大江の鬼退治で知られる源頼光の子孫です。頼政もまた弓の名手として知られ、禁裏に夜な夜な現れる鵺に悩まされた近衛天皇の命により、弓矢で見事退治しました。その恩賞として丹波に領地を賜りますが、弓矢の功績で得たことから、「矢代庄((矢田庄))」と呼ばれました。 
 世は平家一門の専横の時代、頼政は、治承四年(1180)以仁王の令旨をもって平家打倒の兵を挙げます。この時、田野町の神蔵寺の僧兵も呼応し馳せ参じましたが、その利無く宇治川の合戦で自刃しました。その亡骸は、郎党の猪早太が領地であった矢代荘に持ち帰り、この地に葬った塚が頼政塚です。

 この塚上には、亀山藩の家老松平新祐戸敏房の撰文による「従三位源公之墓」と刻された石碑にその由緒が刻されています。(案内板より)

 

※頼政塚へと上がる階段は住宅街の中にあるので、注意していないと見逃してしまうかもしれません。

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2022年9月12日 (月)

源朝長が結ぶ三川と青墓

源朝長の亡骸は、丁重に埋葬されたものの、やがて平氏の知るところとなり、墓は暴かれ朝長の首は京の六条河原に父の義朝とともに晒されました。

朝長の首は守役だった大谷忠太が奪い返し、遠江国豊田郡友永村(袋井市三川地区の友永)に埋葬しました。

そのため朝長の胴の墓は岐阜県大垣市、首の墓は静岡県袋井市の二つあります。

江戸時代の俳人松尾芭蕉は青墓の朝長の墓所を訪れて「苔埋む蔦のうつつの念仏哉」と詠んでいます。

また、修羅能の演目に朝長の死を扱った『朝長』があります。

朝長(『能楽図絵』)
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能「朝長」についてはこちらをご覧ください。

 

朝長の首と胴体が離れて葬られていることで、袋井の三川小と岐阜の青墓小で平成5年より交流活動が行われているそうです。

 

 源平合戦で命を落とした源氏の若武者、源朝長(1143~1160年)の墓がある袋井市友永の積雲院を28日、岐阜県大垣市立青墓小の6年生75人が訪れた。地元の袋井市立三川小の6年生41人が出迎え、朝長を祭る五輪塔にともに手を合わせた。
 平治の乱に敗れ京都を逃れた朝長は手傷を負って死亡。青墓小近くに葬られたが、後に首だけが家臣の手で同院に運ばれた。二つの墓が縁で両地区の住民が交流。93年から両校の相互訪問が続いている。
 郷土史家の清水忠雄さん(85)=袋井市在住=が「命日の12月28日には毎年、まわり念仏と呼ばれる祭礼が行われている」などと説明。両校児童や付き添いの保護者らが熱心に聴き入った。
 子供たちは墓参の後、周辺の製茶工場やメロン栽培農家などを訪ね交流を深めた。

(5月29日11時1分配信 毎日新聞より)

 

袋井三川小学校と大垣青墓小学校との交流について 

青墓小との交流 | 周南たちばな学園袋井市立三川小学校 (fukuroi.ed.jp)

 

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2022年9月 3日 (土)

昔話に語り継がれる源朝長と頼朝の絆

 静岡県磐田市、袋井市、森町に伝わる昔話「中遠昔話」の中にも源朝長の墓のことが登場しています。

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1195年の10月のこと。鎌倉に幕府をつくった源頼朝は、諸国を統一したあと、東海道を通って京都へ上がることになりました。

 その頃の幕府の役人が記した道中日誌に、四日間の空白があります。この間に頼朝は、兄の朝長の墓を供養(放生会)したと伝えられています。
 

 朝長の墓があるのが、今の袋井市(友永)の積雲院門前。京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした兄の墓へ詣でて供養したのです。
 

 供養のための放生会は、近くの池のほとりで大々的に行われ、黄金の札をつけた数多くの鶴が放たれました。以来、人々は、この池を鶴ヶ池と呼ぶようになったということです。

 鶴の寿命は千年。江戸時代、羽に札をつけた鶴を捕まえた人が、「おそらくは、頼朝が放生会で放った鶴だろう。」と言ったという話が、幕末期の随筆に書かれています。

(「磐田昔ばなし」より)

 

朝長(『能楽図絵』)
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鶴ヶ池についてはこちらをご覧ください。コチラ

 

また鶴ヶ池のすぐ近くには日本の秘境100選の一つであるトンボの楽園・桶ヶ谷沼があります。

 

桶ヶ谷沼についてはこちらをご覧ください。コチラ

 

 

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