平盛久ゆかりの主馬盛久之頸座碑
鎌倉の長谷寺からほど近い由比ヶ浜大通り沿いにある平盛久ゆかりの主馬盛久之頸座碑
平盛久
平盛国の子。元暦2年(1185)壇ノ浦の戦いで平家が敗れたあと,京都で捕らえられ鎌倉へおくられる。
由比ケ浜で斬られようとしたが,日ごろ信心していた清水観音の加護ですくわれたという。通称は主馬八郎。
(コトバンクより)
※主馬(しゅめ)とは、馬や馬具の管理をする役職
盛久は京都清水寺に千手観音像を奉納し、千日参りの祈願をしていた。由比ヶ浜で斬首されそうになった際には刀が折れて命拾いしたという。
また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったということで、源頼朝は盛久を許し、さらに領地を与えたと伝わる
(Wikipediaより)
盛久ハ主馬入道盛国ノ子ニシテ
平家累代ノ家人ナリ
然ルニ平家滅亡ノ後
京都ニ潜ミ年来ノ宿願トテ清水寺ニ参詣ノ帰途
北条時政人ヲシテ召捕ヘシメ
鎌倉ニ護送シ
文治二六月此地ニ於テ斬罪ニ処セラレントセシニ奇瑞アリ
宥免セラレ剰ヘ頼朝其所帯安堵ノ下文ヲ給ヒシトイフ
昭和十年三月 鎌倉町青年團建
盛久は、主馬入道盛国の子であり、平家に代々仕えてきました。
平家滅亡後は、京都に潜んでいましたが、長年の願いであった清水寺参詣の帰り道に北条時政の部下に捕まり、鎌倉に護送されました。
文治2年(1186年)6月、この地にて処刑される時に不思議なことが起こったため、助命され、源頼朝から領地まで与えられました。
謡曲「盛久」と由比ヶ浜
平家の武将・平盛久は、源氏に破れ捕らえられて鎌倉に送られ、この由比ヶ浜の地で首を切られることになりました。
盛久は、京都清水寺の観世音菩薩を深く信仰していたので、熱心に祈りを続け処刑前夜に霊夢を見ました。
そしていざ処刑の時、持っていた経巻から光が発散し、処刑人は目が眩んで振り上げた刀を取り落とし、太刀も二つに折れてしまいました。
これを聞いた源頼朝は盛久を招き「自分も同じ夢を見た、観世音のお告げである」と言って助命し、盛久は所望されて舞を舞うのでした。
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