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2023年2月23日 (木)

六代御前の墓

神奈川県逗子市桜山にある平清盛の曾孫にあたる六代御前(平高清)の墓を訪ねました。

田越川沿い建つ「六代御前最後之故址」の碑
Img_1230

六代の父は平維盛。母は藤原成親の娘・新大納言局。
幼名は平正盛から数えて直系の六代目に当たることに因んで六代と名づけられました。

六代は、平家一門の滅亡後、源氏の探索により捕らえられますが、文覚の尽力により助命され出家。
『平家物語』諸本では、12歳で捕らえられ、源頼朝の死後、文覚が流罪にされた際に再び捕らえられ、処刑されたとされています。

この六代御前の墓については、諸説あるので、いくつか拾ってみました。


平家滅亡後の文治元年(1185年)、菖蒲谷に潜んでいたところを北条時政によって捕縛され、殺害されるところでしたが、頼朝の強い協力者で平家打倒に暗躍していた僧侶文覚が頼朝に六代は自分の弟子であるとして助命を嘆願、赦されて文覚に預けられて出家し妙覚(みょうかく)と名乗りました。
その後、時の将軍頼家に斬首に処せられ、斬首地はこの墓の田越川の対岸にあった池の周囲という説もあれば、もっと上流域のあたりだという説、あるいは六浦のあたりであるとする説などとともに諸説あります。
遺体がどこに葬られたかは定かではありません。また、この墓は江戸時代、六代の家臣斎藤氏の末裔を名乗る水戸藩士斎藤仁左衛門によって建てられた供養塚です。
(逗子市観光協会)

『平家物語』巻十二によると,平氏滅亡のとき六代は 12歳で,母や妹とともに隠れていたが密告されて北条時政に捕えられ,
駿河国千本松原で斬られるところを,文覚の命乞いによって助かり,出家して高雄の奥で修行。文覚の死後再び捕えられ,30歳で相模国で斬られた。(コトバンクより)

六代御前の墓
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六代御前之松
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 六代御前は平維盛の嫡男で、文治元年(1185)平家滅亡の時、捕らえられて処刑されるところ、文覚上人のお陰で助けられました。
その後文覚の弟子となり、名も三位の禅師と改め、平安の日々を送りましたが、正治元年(1199)源頼朝が亡くなると、ふたたび捕らえられることになりました。
 平家物語には、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。頭をば剃ったりとも、心をばよも剃らじとて、鎌倉殿より頻に申されけば、安判官資兼に仰召捕って、関東へぞ下さりける。駿河国住人岡辺権守康綱に仰て、田越川にて斬られてんげり。」と記されています。
桜山柳作のこの岡が六代御前の墓とされています。
(逗子市教育委員会)

 

 六代御前が、田越川の畔で斬られたという物語の出所は、「平家物語」の「安判官資兼に仰て召捕って関東へぞ下されける。駿河国住人岡辺権守泰綱に仰て、田越川にて切られてンげり。」という一節の記述で、現在入手できる唯一の拠り所であり、他にこれを求めることはできない。

「平家物語」にも、異本がいろいろあり、六代の処刑地について、長門本や延慶本なは「千代松原」とし、中印本は「六浦坂」と、まちまちである。ほかに保暦間記は、「芝という所」としている。

 このように、いろいろな説があり、「六代御前の墓」についても、確実なところはまだわかっていない。ただ、「新編相模国風土記稿」や「新編鎌倉志」等を初めとして。多くの「史跡・名勝案内書」の類が、田越川の畔、逗子市桜山字柳作にある塚を、「六代御前の墓」として紹介している。
また土地の伝承も、この塚が「六代御前の墓」であることを、代々引き継ぎ、江戸の昔から大切に祀って来ている。
(六代御前史跡保存会)

 

JR逗子駅や京急新逗子駅から田越川沿いに徒歩約15分、バスに乗れば、バス停「六代御前の墓」すぐ前です。

 

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