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2023年3月

2023年3月26日 (日)

源頼朝ゆかりの滝山寺(1)三門

岡崎市滝町にある滝山寺は1300年前に開かれた古刹で、天武天皇の勅願により、役行者が青木川で拾った金色の薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まりとされています。

山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、徳川家の恩恵を受けてきました。

岡崎市最古の和様建築物である三門は、文永4年(1267)、飛騨権守藤原光延が建立したもので、本堂ともに国の重要文化財です。

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三間一戸、入母屋造、こけら葺の楼門

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瀧山寺のHPによると、

門の両側に控える仁王像は運慶仏師の作だといわれており、正面に掲げられた「瀧山寺」の扁額は日本三蹟の一人である藤原行成の八代の孫、行純の子で世尊流の書家の作である。

また、三門の大屋根にある尾垂木が一カ所だけ逆さになっており、三門の完成後ある老婆が「内匠の建てしもこの違いがあるかな」とつぶやいたのを聞き、深く恥じて三門の階上よりノミをくわえて飛び降り、喉元を突いて自害した。その場所に一本の椿が生え、年々美しい花が咲いたが実を結ぶことはなかったと伝えられる。村人はこの椿を「内匠霊花」と呼び、ここに「飛騨権守藤原光延之塚」を築いた。現在三門の手前(西北)にあるのがそれである。

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この三門は、本堂が建つ伽藍から850m離れた滝町の集落入口に位置しています。

ここから本堂まで滝のせせらぎを聞きながら歩いて行きます。

 

青木川堰堤とガラ紡績
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かつて岡崎は、明治時代に発明された紡績技術「ガラ紡績」の盛んなところでした。
この辺りは三河木綿の産地であり原料が手に入りやすく、乙川、男川、青木川など大型水車を動かすのに必要な水量を持った河川が多かったことがその理由だといわれています。

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2023年3月12日 (日)

長篠荏柄天神社

新城市に鎮座する長篠荏柄天神社の本社は、源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になりました。

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時間の都合で、本殿までは行けませんでしたが、参道と駒札のみ撮影してきました。

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新城市指定文化財

●種別・名称(建造物)荏柄天神社本殿

●所在地 新城市長篠字碁石
●由来

本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11年(1689)10月、一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より現在地に遷宮造営された。本殿は、全体的に形姿がよく整い細部に唐様(からよう)や天竺様(てんじくよう)を折衷しりほか、袈溝、組物なでの随所に奇抜がみられる。虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、懸魚(けぎょ)などの繰(く)り形、絵様や擬宝珠(ぎぼし)の形も優れ、蛙股(かえるまた)、脇障子(わきしょうじ)の彫刻なでも意匠にも見るべき点が多く、桃山建築装飾の名残をよくとどめている。

●構造

一間社流造

こけら萱 正面唐破風付

裄行:1.39m 梁間:1.39m 新城市教育委員会

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荏柄天神社の縁起

この荏柄天神社は、八百年に歴史をもつ由緒あるお宮ですが、ただ古いというだけではなく、これほど数奇な運命をたどってきたお宮はほかに例がないでしょう。この社に伝わる「荏柄山天満宮縁起」によりますと源頼朝が鎌倉の荏柄の地に草創したことにはじまります。足利尊氏や一族も大変尊崇しました。応仁の乱のころ、戦乱を避けて古河に移されました。ここは大福田村といって立派な社であったようです。のちに足利氏が一族の一色氏に祭祀を委任しましたので、その後は一色氏の所領がかわるたびに社も遷されました。武州幸手の庄から下総の小文間、そして葛飾群木の崎村と関東の地を三、四たびとかわって、この長篠の地へは、元禄十一年またまた一色氏の所領替えにともなって移ってこられたのです。この時、別当職であった満福寺の僧匠仙が、これまでの五百年の変遷を書き留めたものが「荏柄山天満宮縁起」なのです。

それから長篠の地でお祀りして三百年が経ちました。文政九年に再び新社殿造営が行われました。それまでのできごとや普請の様子など詳しい記録があります。明治になって一色氏はこのお宮のすべてを長篠の村人に委ねることになりました。今日まで百年余、たびたびの補修も時の流れに勝てず、平成四年長篠で三たびの御普請となってものです。ただ、黒末塗極上細美の神殿は覆殿の中にあって何百年もの風雪から護られ一点の腐朽もなく御神体とともに今日に伝えられております。

医王寺東塔尚行先老師依御遣志書之 平成4年11月

 

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本殿のあるところは、天神山と呼ばれ、長篠の戦いでは、武田軍の陣地になりました。

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天神山陣地 二千人
一条信龍 山梨・西八代・上野の城主、信玄の弟
真田信綱 長野・小県・松尾の城主、幸隆の長男
真田昌輝 信綱の弟
土屋昌次 山梨・中巨摩・島上条に住む。
東方に長篠城を望み、また西方の設楽原方面が監視出来る場所である。この陣地から長篠城を盛んに攻めた。
五月十三日の夜、大手門の前へ望楼を建て城中を見おろそうとしたが、城中から鉄砲で壊された。
同二十日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近へ陣をしく。
同二十一日、織田・徳川連合軍との決戦、真田兄弟・土屋昌次は戦死した。
天神山・・・元禄十一年(一六六八)旗本一色氏が旧領から天神社をこの場に移した。それより天神山という。

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