長篠荏柄天神社
新城市に鎮座する長篠荏柄天神社の本社は、源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になりました。
時間の都合で、本殿までは行けませんでしたが、参道と駒札のみ撮影してきました。
新城市指定文化財
●種別・名称(建造物)荏柄天神社本殿
●所在地 新城市長篠字碁石
●由来
本社は源頼朝が勧進創立し、足利氏を経て一色氏の守護神になった(縁起)。元禄11年(1689)10月、一色氏の所領変えにより、下総国(千葉県)木之崎村より現在地に遷宮造営された。本殿は、全体的に形姿がよく整い細部に唐様(からよう)や天竺様(てんじくよう)を折衷しりほか、袈溝、組物なでの随所に奇抜がみられる。虹梁(こうりょう)、木鼻(きばな)、懸魚(けぎょ)などの繰(く)り形、絵様や擬宝珠(ぎぼし)の形も優れ、蛙股(かえるまた)、脇障子(わきしょうじ)の彫刻なでも意匠にも見るべき点が多く、桃山建築装飾の名残をよくとどめている。
●構造
一間社流造
こけら萱 正面唐破風付
裄行:1.39m 梁間:1.39m 新城市教育委員会
荏柄天神社の縁起
この荏柄天神社は、八百年に歴史をもつ由緒あるお宮ですが、ただ古いというだけではなく、これほど数奇な運命をたどってきたお宮はほかに例がないでしょう。この社に伝わる「荏柄山天満宮縁起」によりますと源頼朝が鎌倉の荏柄の地に草創したことにはじまります。足利尊氏や一族も大変尊崇しました。応仁の乱のころ、戦乱を避けて古河に移されました。ここは大福田村といって立派な社であったようです。のちに足利氏が一族の一色氏に祭祀を委任しましたので、その後は一色氏の所領がかわるたびに社も遷されました。武州幸手の庄から下総の小文間、そして葛飾群木の崎村と関東の地を三、四たびとかわって、この長篠の地へは、元禄十一年またまた一色氏の所領替えにともなって移ってこられたのです。この時、別当職であった満福寺の僧匠仙が、これまでの五百年の変遷を書き留めたものが「荏柄山天満宮縁起」なのです。
それから長篠の地でお祀りして三百年が経ちました。文政九年に再び新社殿造営が行われました。それまでのできごとや普請の様子など詳しい記録があります。明治になって一色氏はこのお宮のすべてを長篠の村人に委ねることになりました。今日まで百年余、たびたびの補修も時の流れに勝てず、平成四年長篠で三たびの御普請となってものです。ただ、黒末塗極上細美の神殿は覆殿の中にあって何百年もの風雪から護られ一点の腐朽もなく御神体とともに今日に伝えられております。
医王寺東塔尚行先老師依御遣志書之 平成4年11月
本殿のあるところは、天神山と呼ばれ、長篠の戦いでは、武田軍の陣地になりました。
天神山陣地 二千人
一条信龍 山梨・西八代・上野の城主、信玄の弟
真田信綱 長野・小県・松尾の城主、幸隆の長男
真田昌輝 信綱の弟
土屋昌次 山梨・中巨摩・島上条に住む。
東方に長篠城を望み、また西方の設楽原方面が監視出来る場所である。この陣地から長篠城を盛んに攻めた。
五月十三日の夜、大手門の前へ望楼を建て城中を見おろそうとしたが、城中から鉄砲で壊された。
同二十日、豊川を渡って設楽原へ進出し、連吾川上流付近へ陣をしく。
同二十一日、織田・徳川連合軍との決戦、真田兄弟・土屋昌次は戦死した。
天神山・・・元禄十一年(一六六八)旗本一色氏が旧領から天神社をこの場に移した。それより天神山という。
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