土佐坊昌俊邸跡
鎌倉市小町の宝戒寺の門前、小町大路沿いに土佐坊昌俊邸跡の石碑が建っています。
堀川館に義経を夜襲し利あらずして死せし者 是土佐坊昌俊なり
東鑑文治元年十月の条に 此の追討の事人々に多く以て辞退の気あるの処 昌俊進んで領状申すの間 殊に御感を蒙る
巳に進発の期に及んで御前に参り 老母並に嬰児等下野の国に有り憐憫を加えしめ給ふべきの由之を申す云々 とあり
其の一度去って又還らざる悲壮の覚悟を以て門出なしけん 此の壮士が邸は 即ち此の地に在りたるなり
大正十四年三月建 鎌倉町青年団
土佐坊昌俊は、大和国興福寺金剛堂の堂衆でした。
年貢問題で大和国針の庄の代官を夜討ちにしたことから、大番役として上洛していた土肥実平に預けられ、実平に伴われて関東に下向した後、源頼朝に臣従し、御家人として治承・寿永の乱に参加。
頼朝と義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は義経を誅するべく御家人達を召集しましたが、名乗り出る者がいませんでした。
すると、昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせたといいます。
京都・堀川にいる義経を討つことを命じられた昌俊は、出発前に頼朝に面会し、自分にもしものことがあったら、下野に残してきた年老いた母と子供たちに情けをかけて欲しいといったと伝えられています。
後に、頼朝は彼らに下野国の中泉荘を与えています。
結局、義経暗殺は失敗に終わり、捕らえられた昌俊は六条河原で処刑されました。
土佐坊昌俊を源義経に引き渡す武蔵坊弁慶(『堀川夜討之図浮絵二枚続』より)
また、義経は、以前、父・義朝に仕えていた昌俊を、殺すことができず逃がしたという異説もあります。
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