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2023年9月

2023年9月27日 (水)

三浦義村の邸跡~三浦一族の墓

鎌倉の三浦一族ゆかりの地をまわってみました。

源実朝を暗殺した公暁が、事件後目指した三浦義村の邸宅は、現在、鶴岡八幡宮の東側に位置する横浜国立付属鎌倉小・中学校となっています。

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三浦義村
鎌倉前期の武将。義澄(よしずみ)の子。母は伊東祐親(いとうすけちか)の女(むすめ)という。駿河守(するがのかみ)。評定(ひょうじょう)衆。
1199年(正治1)梶原景時(かじわらかげとき)排斥を策謀したのをはじめ、1213年(建保1)和田の乱では和田義盛(よしもり)に協力を約束しながら北条義時(よしとき)に通じて同族を葬り、将軍実朝(さねとも)暗殺事件では公暁(くぎょう)を誅(ちゅう)し、1221年(承久3)の承久(じょうきゅう)の乱では弟胤義(たねよし)による朝廷側荷担の誘いを断り、北条泰時(やすとき)軍に従って戦功をあげた。24年(元仁1)義時の後室伊賀(いが)氏らが将軍および泰時を除こうと謀った際にも、終始北条氏に忠誠を示して信任され、翌年評定衆に選ばれた。
「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の制定にも参与。三浦一族の最盛期を築いた人物である。延応(えんおう)元年12月5日没。

ここから大蔵幕府跡を通り、

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源頼朝、北条義時の墓がある法華堂跡へ。

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この東側にやぐらがあります。

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ここが三浦一族の墓といわれています。


三浦泰村一族は、宝治合戦で法華堂に籠り、源頼朝の御影の前で往時を語り、法華堂の傍らで自刃しました。

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三浦泰村
鎌倉中期の武将。義村の子。駿河次郎。妻は北条泰時の女。
1221年(承久3)の承久の乱に泰時に従って戦功をたてて若狭守に任じられ、38年(暦仁1)には評定衆に列して幕政の重責を担った。
北条氏と姻戚関係を結び勢力を強大にしたが、逆に北条氏の警戒するところとなる。47年(宝治1)、執権北条時頼の外祖父安達景盛の挑発もあって、
北条・三浦両氏の対立が激化し、同年6月5日、景盛の意を受けた孫の泰盛が泰村を攻めると、
時頼もこれに与同して攻撃したため、泰村以下500余人は頼朝の墓所である法華堂にこもり自殺した。(コトバンクより)

宝治合戦
1247年(宝治1)6月、鎌倉で起きた北条氏と三浦氏との戦い。三浦氏の乱ともいう。三浦氏は1213年(建保1)の和田合戦の際にも、
同族の和田氏を見捨てて北条氏に荷担するなど、北条氏と密接に提携してきており、三浦泰村(やすむら)の代には姻戚(いんせき)関係も結んでいた。
ところが1246年(寛元4)北条時頼(ときより)が執権に就任すると、北条氏の支流名越光時(なごしみつとき)は、前将軍九条頼経(くじょうよりつね)を擁して、
時頼から執権の地位を奪おうとした(宮騒動)。
これに泰村の弟光村(みつむら)もかかわっていたため、両者の間に疎隔が生じ始め、また三浦氏を挑発するような讒訴(ざんそ)もたび重なっていた。
このような状況を打開するため、時頼は5月7日、泰村の次男駒石丸(こまいしまる)を養子とする約束を結び、
ついで6月5日には万年馬入道(まんねんうまにゅうどう)・盛阿(せいあ)(平盛綱(もりつな))に誓紙を持たせて和談を成立させた。
一方、北条氏の外戚で三浦氏と勢力を競っていた安達景盛(あだちかげもり)(覚智(かくち))は、事態の推移が安達氏に不利とみて、
同日、子の義景(よしかげ)と孫の泰盛(やすもり)に命じて300余騎で不意に三浦邸を襲わせた。
泰村がこれを時頼の襲来と判断して応戦したため、ついに戦端が開かれることとなった。
これを聞いた時頼も、やむなく北条実時(さねとき)に幕府を守らせ、北条時定(ときさだ)を大手の大将軍として500騎をもって三浦邸を襲い、火をかけた。
激闘のすえ、泰村は頼朝(よりとも)の墓所法華(ほっけ)堂に退き、永福(ようふく)寺で防戦していた光村もこれに合流し、
一族276人、郎従家子(ろうじゅういえのこ)220人が同時に腹を切って自害した。首は翌日由比(ゆい)ヶ浜にかけられ、姻戚関係のある千葉氏もまた没落した。
こうして時頼の独裁体制が確立したのである。(コトバンクより)

 

 

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2023年9月14日 (木)

畠山重忠邸跡

鶴岡八幡宮の東の鳥居を出ると、住宅地の一角に「畠山重忠邸跡」の碑があります。

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ここは、鎌倉幕府成立後、畠山重忠が公務で鎌倉務めの際に居住した邸宅跡です。

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畠山重忠邸址

正治元年五月頼朝ノ女三幡疾ミ之ヲ治センガ為当世ノ名医丹波時長京都ヨリ来レル事アリ 
東鑑ニ曰ク七日時長掃部頭親能ガ亀ヶ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス 
是近々ニ候ゼシメ姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ
大正十二年三月 鎌倉町青年團建

正治元年(1199)5月、源頼朝の娘が病気にかかり、これを治すために、当時一番の名医といわれた丹波時長が京都からやってきました。
吾妻鑑によると、7日に時長が、中原親能の亀が谷の家から治療のために畠山重忠の南御門にある宅に移動したとあります。
この場所が南御門のその家のあった跡です。

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畠山庄司重忠 月岡芳年画「芳年武者无類」

重能(しげよし)の子。母は三浦義明の女。系図によれば桓武平氏の流れで、畠山を称したのは武蔵国畠山庄埼玉県深谷(ふかや)市川本地区付近)の庄司であった重能からである。
1180年(治承4)石橋山の戦いでは初め頼朝に敵対したが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲(きそよしなか)や平氏の追討、さらに1189年(文治5)の奥州征伐などに戦功をたてた。
その間、伊勢沼田御厨(いせぬまたのみくりや)(三重県松阪市)で起こった地頭代の押妨事件に関連して地頭であった重忠が捕らえられ、梶原景時の讒言で逆心を疑われた際、頼朝に逆心を抱いていないこと、武士に二言はないから起請文など書く必要はないことを主張し、頼朝に信用された話は有名である。
1190年、1195年(建久1、6)頼朝再度の上洛に先陣を勤めるなど頼朝に仕えた。(コトバンクより)

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2023年9月 1日 (金)

関取場

鎌倉の荏柄天神社から西に歩いて2分ほどのところに、関取場の碑があります。

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昔はこの場所を「関取場」と呼んでいました。

1548年、後北条氏は関所をこの場所に儲け、通行料を取り、荏柄天神社の運営費に充てていました。

この掟書の文書はが荏柄天神社に保管されているとのことです。


後北条氏

戦国時代,関東に広く勢力をもった戦国大名
始祖伊勢長氏の出身は明らかではない。駿河今川氏の食客であったが,15世紀末伊豆韮山 (にらやま) から相模に進出,小田原を本拠とし長氏の子氏綱から北条氏を称した。孫氏康は支配圏を広げ関東南半を制圧し,上杉謙信・武田信玄と覇を競う戦国大名の雄となった。1590年豊臣秀吉の小田原征討で滅びるまで,5代にわたり領国統治を巧みに行い栄えた。鎌倉時代の執権北条氏と区別するため,俗に後北条氏と称す。

(コトバンクより)

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