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2023年10月10日 (火)

大蔵幕府跡

大蔵幕府(大蔵御所、大倉幕府)は、鎌倉時代の相模国鎌倉大倉郷、現在の神奈川県鎌倉市二階堂・西御門・雪ノ下3丁目一帯にあった
源頼朝の邸宅で、1180年(治承4年)から1219年(承久元年)までの39年間、あるいは1225年(嘉禄元年)までの45年、鎌倉殿の御所でした。

現在の清泉小学校とその周辺の住宅街が所在地とされています。

大蔵幕府跡
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今ヲ距ル七百三十七年ノ昔 治承四年源頼朝邸ヲ此ノ地ニ營ミ後覇權ヲ握ルニ及ビテ政ヲ此ノ邸中ニ聴ク 所謂大蔵幕府是ナリ 爾来頼家 實朝ヲ経テ嘉禄元年政子薨ジ 幕府ノ宇津宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ覇府ノ中心タリシコト實ニ四十六年間ナリ
                大正六年三月建之  鎌倉町青年會



侍所、公文所 (のちの政所)、問注所を設置し、政庁でもありましたが、1219年に焼失してしまいました。

以来、再建されず、現在は石碑のみがかつての大蔵幕府の中心を示しています。

東御門跡の碑
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大蔵幕府には四つの門があり、門の名は、方角によって名づけられていました。
東にある門を東御門といい、今、地名となっています。
法華堂の東方にあたるこの一帯を、門の名にちなんで東御門といいます。


源頼朝は治承4年(1180年)8月に挙兵し、10月に鎌倉入りして拠点を大倉に定め、大庭景義を担当として新たな館の建設が行われた。当初は父源義朝の屋敷があった亀ヶ谷が候補地であったが、手狭であり義朝の菩提を弔う寺院もすでに建てられていた事から、大倉の地(東西約270メートル、南北約200メートル程度の方形の敷地)になったという。この地が選ばれたのは、大倉が鎌倉の外港六浦と鎌倉を結ぶ六浦道沿いの地であった事と、四神相応の地であった事があげられる。

廊内(敷地内)には、寝殿、対屋、侍所、厩などがあり、東・西・南・北に門がある一般的な貴族の寝殿造であった。頼朝配下が控えていた侍所は貴族の邸宅のそれの2倍の大きさの18間(約37.8メートル)、厩は15間(約31.5メートル)で奥州の名馬30頭を収容できる規模であり、武家の総帥の邸宅としての特徴が見られる。そしてその近辺には御家人の宿館が立ち並んでいた。御所内には御寝所などの私的な区域と、公的な区域があり、政務は問注所や評定を行う西中門廊、内厩侍上などで行われた。

頼朝は同年12月12日に上総広常の邸を出て、完成した新亭に入る儀式が行われた。多くの武士たちがこれに従い、出仕の場である侍所には311人が2列に居並び、侍所別当に任じられた和田義盛が帳簿に出欠を記録した。『吾妻鏡』は「これから以降、東国の人々はみな、頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。」と記している。それまで鎌倉は漁民や農民のみが住む辺鄙な所であったが、この時に道を整えて村里に名前をつけ、家屋が建ち並ぶようになったという。
(Wikipediaより)


頼朝が行なった鶴岡八幡宮の放生会を描いた月岡芳年の浮世絵。

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由比ガ浜で千羽の鶴を放ったと言われる。(Wikipediaより)

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