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2024年1月

2024年1月28日 (日)

法華堂跡(2)源頼朝の墓

現在、源頼朝の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。

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堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎党五百餘人ト供ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス
      
 大正十三年三月建   鎌倉町青年團


白旗神社の社殿が立つ場所から北側の石段を登った所に、源頼朝の墓とされる石塔があります。

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君出でて民もしづまり九重の塵もをさまる世とはなりにけり

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歌碑は我が国中世史の権威であり、源頼朝研究の第一人者でもあった大森金五郎氏によるものである。

戦乱の中世を鎮定して民百姓の生命財産を保障すると共に時の朝政を恣しいままにしていた公家衆の特権を剥奪して我が国最初の武家政権を鎌倉の地に創設した不世出の英雄源頼朝公を讃えたものである。

顕彰碑裏面には源頼朝公の偉業を讃える八百余名の顕彰者名が刻銘されている。

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頼朝公石塔及元祖島津豊後守忠久石塔道 安永八年乙亥二月薩摩中将重豪建之

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 源頼朝は、治承4年(1180年)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185年)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下3丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。

 正治元年(1199年)に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一体がその跡です。

 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされています。

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国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

この平場は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。

治承4年(1180)平家追討のために挙兵した源頼朝は、同年に鎌倉に入りました。元暦2年(1185)に平家を、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、鎌倉を拠点とする武家による全国的な政権の基礎を築きました。以降、江戸時代が終わるまで、約700年間にわたり、武家による政権が続くことになります。

建久10年(1199)に頼朝が53歳で没すると、法華堂は幕府創始者の墳墓堂として、のちの時代の武士たちからもあつい信仰を集めました。鎌倉幕府滅亡後も法華堂は存続しましたが、17世紀の初頭までには堂舎がなくなり、石造りの墓塔が建てられました。現在の墓域は、安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪によって整備されたものです。

平成24年3月   鎌倉市教育委員会


小道を挟んで別々の階段の先にある源頼朝墓と北条義時墓が合わせて1つの国指定史跡に指定されています。

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源頼朝墓とされる石造りの層塔は、頼朝の墳墓堂である法華堂があった場所とも推定されています。

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安永8年(1779年)に島津重豪により頼朝の墓の整備が行われ、現在も墓所内に残る碑文から当時、玉垣、灯篭、水盤等が寄贈されたことが記されています。

なお、現在の層塔は平成元年(1989年)に塔身と第1層の蓋石を残しき損されたものを翌年修理・再建したものです。

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2024年1月19日 (金)

法華堂跡(1)北条義時の墓

現在、源頼朝の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。

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堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎党五百餘人ト供ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス
      
 大正十三年三月建   鎌倉町青年團

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小道を挟んで別々の階段の先にある源頼朝の墓と北条義時の墓が合わせて1つの国指定史跡に指定されています。

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770平方メートル程度の平場となっている地下から、2005年の発掘調査で、墳墓堂(法華堂)の遺構が発見されました。

発見された遺構の位置が、『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位と地形と一致したことから、遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されています。

遺構は現在の地表より下にあるため、保護するために調査後は埋め戻しが行われ、遺構の真上には、調査でみつかった法華堂の礎石や柱の跡、雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示しています。

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この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。

北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による幕府の開創を助けました。

承久3年(1221年)の承久の乱においては、後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。

義時が貞応3年(1224年)に62歳で没しました。「吾妻鏡」には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。

義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005年)に行われた発掘調査もより、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、「吾妻鏡」の記述が裏付けられました。

 

 

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2024年1月 8日 (月)

北条氏供養の寺「宝戒寺」

鎌倉市小町にある宝戒寺は、北条義時以来の歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝わっています。

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門前には、それを示す碑が立っています。

義時は、幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を挑発して反乱に追い込み、建保元年(1213年)2月、和田合戦において和田一族を滅ぼしました。

義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼務するようにり、「執権」を名乗ることにしました。

北条執権邸旧蹟碑
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往時此ノ地ニ北條氏ノ小町亭在リ
義時以後累代ノ執權概ネ皆之ニ住セリ
彼ノ相模入道ガ朝暮ニ宴筵ヲ張リ
時ニ田樂法師ニ對シ
列坐ノ宗族巨室ト倶ニ
直垂大口ヲ争ヒ解キテ
纏頭ノ山ヲ築ケリト言フモ此ノ亭ナリ
元弘三年新田義貞亂入ノ際
灰燼ニ歸ス
今ノ寶戒寺ハ建武二年
足利尊氏ガ高時一族ノ怨魂弔祭ノ為
北條氏ノ菩提寺東勝寺ヲ此ノ亭ノ故址ニ再興シ
以テ其ノ號ヲ改メシモノナリ


山号は金龍山。詳名を金龍山釈満院 円頓宝戒寺と称し、本尊は地蔵菩薩。

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萩の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれています。

1333年の北条氏滅亡後その霊を弔うため、後醍醐天皇の命をうけた足利尊氏によって、当時小町邸と呼ばれ北条氏歴代執権屋敷跡であるこの地に建立されました。

また、戒壇院が置かれ国宝的人材を養成する道場として位置付けられていました。

ご本尊は、子育て経読み延命地蔵様で鎌倉二十四地蔵尊の第一番とされています。

また、鎌倉三十三観音第二番の仏母准胝観音、鎌倉・江ノ島七福神の毘沙門天などが祀られています。

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 新田義貞の鎌倉攻めにより、この寺の南東にある「腹切りやぐら」で、最後の執権、北条孝時をはじめ北条一族870余名が自害したと伝えられています。

 滅亡した北条氏の霊を弔うため、また修行道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条氏の屋敷があったとされるこの地に寺を建立させました。

 境内には四季を通じて花が咲き、9月には白いハギで埋め尽くされる「萩の寺」として有名です。
(駒札より)


本堂
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聖德太子堂
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聖德太子をお祀りしています。
聖德太子は、仏教の保護に尽力され、また優れた工芸技能者の育成を図ったとことにちなみ、諸職人の守り神として信仰されています。

德崇大権現堂
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鎌倉幕府執権・北条高時を德崇大権現(とくそうだいごんげん)としてお祀りしています。

大聖歓喜天堂
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秘仏である大聖歓喜双身天王(だいしょうかんぎそうじんてんのう)をお祀りしています。

鐘楼
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2024年1月 1日 (月)

海蔵寺

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鎌倉市扇ガ谷にある海蔵寺は、建長5年(1253年)に宗尊親王の命により藤原仲能が創建し、鎌倉幕府滅亡時に焼失、応永元年(1394年)に上杉氏定の開基、心昭空外を開山として再興されたと伝えられています。

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本堂
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十一面観音を安置。

薬師堂
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堂は鎌倉の浄智寺から移築したものと伝わっています。

本尊薬師如来坐像の胎内には、源翁和尚(空外)が赤児の泣き声を頼りに土中から掘り出したと伝える仏面を納めており、その伝説から啼薬師(なきやくし)、児護薬師(こもりやくし)と通称。

鐘楼
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底脱の井(そこぬけのい)
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鎌倉十井(じっせい)の一つ。

安達泰盛の娘千代能が「千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねは月もやどらず」が詠んだことが由来と伝わります。

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鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きい寺があったと伝えられますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され。扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。
この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話で有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」、「児護薬師」といわれ、胎内には仏面を収めており、啼薬師伝説があります。
門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」とうたわれたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。

 

 

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