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2024年1月19日 (金)

法華堂跡(1)北条義時の墓

現在、源頼朝の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。

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堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎党五百餘人ト供ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス
      
 大正十三年三月建   鎌倉町青年團

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小道を挟んで別々の階段の先にある源頼朝の墓と北条義時の墓が合わせて1つの国指定史跡に指定されています。

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770平方メートル程度の平場となっている地下から、2005年の発掘調査で、墳墓堂(法華堂)の遺構が発見されました。

発見された遺構の位置が、『吾妻鏡』に記載された頼朝墓からの方位と地形と一致したことから、遺構は北条義時が祀られていた北条義時法華堂の跡であると推定されています。

遺構は現在の地表より下にあるため、保護するために調査後は埋め戻しが行われ、遺構の真上には、調査でみつかった法華堂の礎石や柱の跡、雨落ち溝の跡の実際の位置を木杭や石で地表に示しています。

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この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。

北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による幕府の開創を助けました。

承久3年(1221年)の承久の乱においては、後鳥羽上皇方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。

義時が貞応3年(1224年)に62歳で没しました。「吾妻鏡」には、源頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地とし、そこに新法華堂(義時の法華堂)を建てたことが記されています。

義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005年)に行われた発掘調査もより、8.4m四方の平面正方形の建物跡が確認され、「吾妻鏡」の記述が裏付けられました。

 

 

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