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2024年2月

2024年2月26日 (月)

本覚寺 頼朝ゆかりの夷堂


鎌倉駅からほど近い本覚寺は、身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれています。

現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂と呼ばれる堂がありました。
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この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものでした。

文永11年(1274年)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていました。

その後の永享8年(1436年)に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建したといいます。
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本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、不況を再開した際に住まいにしたと伝えられます。
その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、見延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「目を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。

本堂
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八角形の建物が目印の「夷堂」
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前身となった天台宗の夷堂は、本覚寺の創建時に境内に移されましたが、明治の神仏分離令によって、寺とは分離され、地区の七面大明神、山王台権現を合祀して蛭子神社(ひるこじんじゃ)となりました。

昭和56年(1981年)に本覚寺境内に再び夷堂が再建されました。

山門を外に出たところに流れている川を滑川といい、その川に架けられているのが、夷堂橋です。
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この橋は鎌倉十橋の一つに数えられ、この橋のあたりに、かつての夷堂があったそうです。


本覚寺の「にぎり福」は、頼朝が御所の鬼門の守護神とした夷神に由来する縁起物の愛・健・財・学・福の5つを握り込んだお守りのことをいい、 毎朝、握ると願い事が叶うといいます。
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2024年2月17日 (土)

源頼家と段葛

鶴岡八幡宮に続く若宮大路の二の鳥居から三の鳥居まで続く参道は、葛石を敷いて一段高くしたため、段葛(だんかずら)と呼ばれています。

二の鳥居
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三の鳥居
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段葛
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1182年、北条政子源頼朝との長男・源頼家(鎌倉幕府の第2代将軍、幼名万寿,または十幡)を懐妊していた時、頼朝が政子の安産祈願のため築いたといいます。

源頼家
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段葛
鎌倉の鶴岡八幡宮から由比ヶ浜に通ずる若宮大路の中央の一段高い道路部分をいう。現在は赤橋(三ノ鳥居前)から小町口(二ノ鳥居)までの間に残っているが,元は米町口(下馬四つ角)あるいは浜の大鳥居(一ノ鳥居)まで続いていたともいう。段葛の名は,葛石を段に築いたからだという。ただ中世の記録には段葛の名は現れないので,いつごろからこう呼ばれたのかは明らかでない。《吾妻鏡》の寿永元年(1182)3月15日条に源頼朝が妻政子の安産祈願のために御家人等に築かせたと記されている。(コトバンクより)

源頼家
鎌倉幕府の第2代将軍。幼名万寿,または十幡(万)。源頼朝と北条政子の長男として,鎌倉比企谷第に誕生。鎌倉若宮大路の段葛はこの折の安産を願い,頼朝みずから御家人を指揮して造らせたものという。頼朝が長男に寄せる期待は大きく,建久4(1193)年の富士の大巻狩りで頼家に鹿を射止めさせたのは,関東御家人への家督披露のためであり,同6年の上洛に同伴参内した行為には,幕府の後継者として朝廷の認知を得る意図が込められていた。正治1(1199)年1月,父の死により頼家が鎌倉殿の地位を相続,頼朝の遺跡継承を認める宣旨を受け,建仁2(1202)年7月には征夷大将軍となった。(コトバンクより)

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2024年2月 8日 (木)

若宮大路幕府旧蹟

鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経は、摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍で、九条頼経とも呼ばれています。

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九条道家と西園寺公経の娘・掄子の子として生まれ、生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、

幼名を三寅(みとら)と言いました。

両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にあります。

妻は源頼家の娘竹御所

竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶。

頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放されてしまいます(宮騒動)。


建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。三寅の鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)12月29日、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年(1226年)、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍・源頼家の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎える。しかし、北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、頼経の元服直前に義時と政子が相次いで死去するものの、その立場は北条泰時と叔父時房に引き継がれた。加えて天福2年(1234年)には正室・竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。将軍に迎えられてまもなくの頃は三浦氏(三浦義村・泰村ら)が近しく仕えており、『吾妻鏡』安貞元年(1227年)・翌2年(1228年)・嘉禎2年(1236年)の条などには、頼経が義村の田村館(田村山荘、田村城とも)を度々訪れた記録が見える。(Wikipediaより)


鶴岡八幡宮の三ノ鳥居からほど近い若宮大路と小町大路の間の路地に若宮大路幕府旧蹟の碑があります。

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若宮大路幕府は、鎌倉時代の4代将軍藤原頼経から9代将軍守邦親王までの幕府滅亡まで、1世紀近くにわたり将軍の御所として存続しました。

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若宮大路幕府の位置については、鶴岡八幡宮側の横大路に面していたという説と、宇都宮辻子幕府と同じ場所で出入口が若宮大路に面していたという説があると言われています。
(鎌倉観光協会公式HPより)

鎌倉ノ幕府ハ始メ大蔵ニ在リシカ嘉禄元年政子ノ薨ズルト共ニ将軍藤原頼経之ヲ宇都宮辻ニ遷シ後十一年ニシテ嘉禎二年再ビ此ノ地ニ遷ス爾来九十八年頼経以後六代ノ将軍相継ギテ政ヲ此ニ聴ケリ元弘三年新田義貞ノ鎌倉ニ亂入スルニ及ビテ廃絶セリ
(碑文より)


鎌倉幕府は、はじめは大蔵にありましたが、嘉禄元年北条政子が亡くなると共に、将軍藤原頼経は宇津宮辻に遷し、11年後の嘉禎2年に再びこの地に遷しました。
以後98年間、頼経以後六代の将軍が相継いでここで政を行いましたが、元弘3年新田義貞が鎌倉に攻め入ったことにより鎌倉幕府(若宮大路幕府)は廃絶しました。

移転の理由としては、頼経の病気が原因という説もあるそうですが、詳細不明となっています。

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