本覚寺 頼朝ゆかりの夷堂
鎌倉駅からほど近い本覚寺は、身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれています。
現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂と呼ばれる堂がありました。

この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものでした。
文永11年(1274年)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていました。
その後の永享8年(1436年)に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建したといいます。

本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、不況を再開した際に住まいにしたと伝えられます。
その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、見延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「目を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。
本堂

八角形の建物が目印の「夷堂」

前身となった天台宗の夷堂は、本覚寺の創建時に境内に移されましたが、明治の神仏分離令によって、寺とは分離され、地区の七面大明神、山王台権現を合祀して蛭子神社(ひるこじんじゃ)となりました。
昭和56年(1981年)に本覚寺境内に再び夷堂が再建されました。
山門を外に出たところに流れている川を滑川といい、その川に架けられているのが、夷堂橋です。

この橋は鎌倉十橋の一つに数えられ、この橋のあたりに、かつての夷堂があったそうです。
本覚寺の「にぎり福」は、頼朝が御所の鬼門の守護神とした夷神に由来する縁起物の愛・健・財・学・福の5つを握り込んだお守りのことをいい、 毎朝、握ると願い事が叶うといいます。
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