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2024年2月 8日 (木)

若宮大路幕府旧蹟

鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経は、摂政関白を歴任した九条道家の三男で、摂家から迎えられた摂家将軍で、九条頼経とも呼ばれています。

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九条道家と西園寺公経の娘・掄子の子として生まれ、生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので、

幼名を三寅(みとら)と言いました。

両親ともに源頼朝の同母妹坊門姫の孫であり、前3代の源氏将軍とは遠縁ながら血縁関係にあります。

妻は源頼家の娘竹御所

竹御所は難産の末、母子共に亡くなり、源頼朝直系である源氏将軍の血筋は断絶。

頼経は反執権勢力に利用されるようになり、第5代執権北条時頼によって京都へ追放されてしまいます(宮騒動)。


建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとして、有力御家人一同が連署した上奏文を携えた使者を京都へ送ったが、後鳥羽上皇に拒否される。そのため源頼朝の同母妹(坊門姫)の曾孫にあたる2歳の頼経が鎌倉に迎え入れられた。三寅の鎌倉下向から数年間は北条政子が尼将軍として三寅を後見して将軍の代行をしていた。その後、承久の乱をはさんで、6年後の嘉禄元年(1225年)12月29日、元服し頼経と名乗る。翌嘉禄2年(1226年)、将軍宣下により鎌倉幕府の4代将軍となる。寛喜2年(1230年)12月9日、2代将軍・源頼家の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎える。しかし、北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、頼経の元服直前に義時と政子が相次いで死去するものの、その立場は北条泰時と叔父時房に引き継がれた。加えて天福2年(1234年)には正室・竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。将軍に迎えられてまもなくの頃は三浦氏(三浦義村・泰村ら)が近しく仕えており、『吾妻鏡』安貞元年(1227年)・翌2年(1228年)・嘉禎2年(1236年)の条などには、頼経が義村の田村館(田村山荘、田村城とも)を度々訪れた記録が見える。(Wikipediaより)


鶴岡八幡宮の三ノ鳥居からほど近い若宮大路と小町大路の間の路地に若宮大路幕府旧蹟の碑があります。

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若宮大路幕府は、鎌倉時代の4代将軍藤原頼経から9代将軍守邦親王までの幕府滅亡まで、1世紀近くにわたり将軍の御所として存続しました。

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若宮大路幕府の位置については、鶴岡八幡宮側の横大路に面していたという説と、宇都宮辻子幕府と同じ場所で出入口が若宮大路に面していたという説があると言われています。
(鎌倉観光協会公式HPより)

鎌倉ノ幕府ハ始メ大蔵ニ在リシカ嘉禄元年政子ノ薨ズルト共ニ将軍藤原頼経之ヲ宇都宮辻ニ遷シ後十一年ニシテ嘉禎二年再ビ此ノ地ニ遷ス爾来九十八年頼経以後六代ノ将軍相継ギテ政ヲ此ニ聴ケリ元弘三年新田義貞ノ鎌倉ニ亂入スルニ及ビテ廃絶セリ
(碑文より)


鎌倉幕府は、はじめは大蔵にありましたが、嘉禄元年北条政子が亡くなると共に、将軍藤原頼経は宇津宮辻に遷し、11年後の嘉禎2年に再びこの地に遷しました。
以後98年間、頼経以後六代の将軍が相継いでここで政を行いましたが、元弘3年新田義貞が鎌倉に攻め入ったことにより鎌倉幕府(若宮大路幕府)は廃絶しました。

移転の理由としては、頼経の病気が原因という説もあるそうですが、詳細不明となっています。

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