鎌倉の「下馬」の碑
鎌倉駅から由比ガ浜に向かう若宮大路沿いのガソリンスタンドの脇に「下馬」の碑が建っています。
往昔鶴岡社參ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ
徒歩ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ稱アリ
今ニ地名トシテ存ス
此ノ地點ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ
屡々戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ
尚ホ文永八年(皇紀一九三一)九月十二日
日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上
鶴岡ニ向ヒ
八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顯ハシタマヘト
大音聲ニテ祈請アリシハ
下馬橋附近ナルト傳ヘラル
鎌倉時代、鶴岡八幡宮に参拝する時は、いかに身分の高い武士であっても、ここで馬を下りることになっていました。
この付近は、若宮大路を横切る時も、馬を下りて鶴岡八幡宮に礼拝しないと通れなかったことから、「下馬」という地名がつけられたのだといわれます。
下馬には、昔は上・中・下の下馬があり、 ここは下の下馬にあたるようです。
江戸時代、 下の下馬には駒止めの柵があり、 八幡宮への馬の乗入れを禁じていたそうです。
明治22年(1889)、横須賀線が開通するまで、段葛はこの下の下馬の四つ辻まで続いており二の鳥居も、この付近にあったともいわれています。
また、幕末のころ、 この付近で乗馬した外国人が浪人に殺傷されるという事件も起きました。
横浜駐留中のイギリス陸軍第20連隊第2大隊所属のジョージ・ウォルター・ボールドゥィン少佐(34歳)とロバート・ニコラス・バード中尉(23歳)は事件当日、休暇を取って騎馬で江ノ島~鎌倉を巡遊していた。
2人が大仏の見物を終えて金沢方面に向かう途中、昼七つ時(午後3~4時)頃、若宮大路近くの路上(現在の御成町4丁目付近)で2人の武士に斬りつけられた。
この襲撃によってボールドゥィン少佐は四肢に深傷を受け、特に脇腹から背中にかけての傷が致命傷となり即死。右腕と左膝、首などに重傷を負ったバード中尉は現場近くの民家に運ばれて地元の医師による治療を受けたものの、その夜暮れ四つ(午後10時)頃死亡した。(Wikipediaより)
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