« 銭洗弁財天宇賀福神社 | トップページ | 建長寺に伝わる梶原景時の伝説 »

2024年7月 9日 (火)

鎌倉の勝長寿院と源義朝の主従供養塔

源頼朝は治承4年(1180年)8月に挙兵し、10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入り、大倉の地に大倉御所を構えて鎌倉の政治の拠点としました。

また鎌倉に三大寺と呼ばれる鶴岡八幡宮(寺)、勝長寿院、永福寺を建立しました。

その一つの勝長寿院は、頼朝が父・源義朝の菩提を弔うために大御堂ヶ谷の地(鎌倉市雪ノ下)に1185年に建てた寺で、大御堂、南御堂とも呼ばれました。

文治元年(1185年)9月3日、義朝の遺骨と政清の首は南御堂の地に埋葬され、同年10月に堂舎が完成し、盛大に落慶供養が行われました。

勝長寿院は源氏との関係が強く、三代将軍・源実朝も暗殺後、勝長寿院の傍らに葬られました。
その後、火災と再建を繰り返し、結局廃寺となってしまいました。

昭和に入り、源義朝公主従供養塔再建委員会が設立され、昭和59年、勝長寿院跡地に「勝長寿院跡」の碑と供養塔が建立されました。

当時、勝長寿院は、本堂、五仏堂、三重塔などの伽藍からなる大寺院でしたが、現在はその面影はなく、住宅地の間にひっそりと石碑が残るのみです。

1_20240709082501

2_20240709082501

3_20240709082501

勝長寿院と源義朝主従の供養塔

 文治元年(1185)、源頼朝は父・義朝の菩提を弔うため、この地に勝長寿院を建立し、同年九月三日、義朝と郎等・鎌田正清(政家)の頚を埋葬しました。
 石碑の背後の五輪塔は、主従の供養のため源義朝公主従供養塔再建委員会(代表・鎌田丙午氏)の方々の御厚意により建てられたものです。勝長寿寿院には、定朝作の本尊・金色阿弥陀仏像を始め、運慶作の五大尊像などが安置され、壁画に彩られた阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が立ち並んでいました。
 鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって護持されましたが、十六世紀頃に廃絶したと思われます。ここに集められた礎石は工事等で出土したものですが、柱を据えるための整形跡や火災で焼けた痕跡が認められ、勝長寿院の歴史を語る貴重な遺物です。

 平成八年三月六日 鎌倉教育委員会
 源義朝公主従供養塔再建委員会の協力により之れを建てる。

碑文
院は文治元年(1185) 源頼朝の先考(亡父)義朝を祀らんが為に草創する所 一(いつ)に南御堂(みなみみどう)又大御堂(おおみどう)と言う 此の地を大御堂が谷(やつ)と言うは是が為なり 実朝及び政子も亦(また)此の地に葬られたりと伝へらるれども 其墓今は扇が谷寿福寺にあり

 

 

ブログランキングに参加しています。

応援よろしくお願いします!

にほんブログ村 歴史ブログ 歴女・女性歴史ファンへ
にほんブログ村

 


偉人・歴史人物ランキング

 

« 銭洗弁財天宇賀福神社 | トップページ | 建長寺に伝わる梶原景時の伝説 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 銭洗弁財天宇賀福神社 | トップページ | 建長寺に伝わる梶原景時の伝説 »

2024年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

カテゴリー

無料ブログはココログ