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2024年10月

2024年10月30日 (水)

沼津の大泉寺(1)阿野全成の墓

阿野全成の幼名は今若

7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。

兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。

その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。

頼朝の死後、嫡男の源頼家が将軍職を継ぐと、全成は実朝を擁する舅の北条時政と組んで実朝を擁立し、頼家一派と対立。

建仁3年(1203年)5月19日、頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛。全成は5月25日に常陸国に配流され、6月23日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺されました。享年51。

さらに7月16日には三男の阿野頼全(播磨坊頼全)が京都の東山延年寺で源仲章によって殺害されました。

全成の首は阿野庄全成館に届けられたといいます。

四男の阿野時元はこの時、外祖父である北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国東部の阿野荘に隠棲しましたが、建保7年(1219年)1月、従兄弟に当たる第3代将軍・源実朝が殺害されると、将軍の座を望んで翌月(承久元年2月11日)挙兵。しかし思うように兵を集めることができないうちに、執権・北条義時の命を受けた金窪行親の手勢に討ち取られました。
(『承久記』によると、最期は自害であったと。)

全成・時元の墓は、静岡県沼津市東井出の大泉寺にあります。

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阿野全成(今若)は、源頼朝挙兵時に参加に加わり功績をあげ、阿野荘(現在の井出から原にかけての地域)を賜まり館を建て、先祖の霊を弔うために大泉寺を建立。

全成の弟の源義経が、兄の源頼朝に追われ奥州に逃れた際に、大泉寺に立ち寄り、全成と涙ながらに語り合ったといわれています。

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伝阿野全成・時元墓 
阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡男源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。
頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。

墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。
  沼津市教育委員会

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大泉寺の全成の墓には首のみ埋葬されているそうです。

 

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2024年10月24日 (木)

寒川を巡る旅(5)寒川神社

寒川町に鎮座する寒川神社は、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れるという関東地方における著名な神社の一つであり、初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多いそうです。

鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされ、源頼家が誕生した際には、源頼朝より神馬の奉納等がありました。

以後も北条氏から崇敬され、 戦国時代以降、相模国を支配した後北条氏や徳川家康より社領を認められました。

また、武田信玄が小田原攻めの途中に当社を参拝して戦勝を祈願し、自身の纏っていた兜と太刀を奉納しています。

神池橋、三の鳥居
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寒川神社
御祭神  寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )・寒川比女命 ( さむかわひめのみこと )
        二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。
例祭日  九月二十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)
由 緒
  当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣(天皇より神社に献上
  品がされること)の記録があり、神亀四年(727)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の歴史
  を有しています。
  以後、延暦十六年(797)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(846)に
  神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。また醍醐天皇の御代に制定されまし
  た延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心
  をなしていました。
  中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武田
  信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納される
  など特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家から
  の崇敬は極めて篤いものがありました。
  明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国弊社制度によって、例祭において
  国費から弊帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。(駒札より一部抜粋)


神門
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御社殿
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客殿
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南門
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2024年10月14日 (月)

寒川を巡る旅(4)梶原景季のレリーフ

梶原一族郎党の墓の隣りに立つレリーフには、「箙(えびら)の梅」で知られる梶原景時の長男・梶原景季(かげすえ)が描かれています。

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『源平盛衰記』によれば、一の谷(生田の森)の戦いで、勢いあまって敵陣深く入り込み、矢が尽きてしまった景季は、箙に梅の花の枝を挿して奮戦し、坂東武者にも雅を解する者がいると敵味方問わず賞賛を浴びたといいます。




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2024年10月 7日 (月)

寒川を巡る旅(3)梶原一族郎党の墓

薬師堂の前に、「梶原景時と一宮館址」の案内板があります。

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 梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。
梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
 治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
 翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司(さむらいどころしょし)をはじめさまざまな重職に携わりました。
 頼朝の死後、正治元年(1199)10月、結城朝光(ゆうきともみつ)謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で御家人66名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、12月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
 正治2年(1200)1月20日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。
 幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。

 梶原景時公没後800年記念事業
 平成12年7月 寒川町梶原公顕彰会
 平成27年改修 寒川町教育委員会


梶原一族郎党の墓
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梶原景時館址から東に80mのところにある西町集会所(薬師堂)の裏に、梶原一族郎党の墓と伝えられている石造物群があります。

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  伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓

 この石造物群には次のような言い伝えがあります。
正治2年(1200年)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。
 また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。
 なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
平成21(2009)年3月
寒川町教育委員会

 

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2024年10月 1日 (火)

寒川を巡る旅(2)梶原景時館跡

自転車を借りて最初に向かったのは、一之宮地区にある梶原景時館跡です

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正治元年(1199年)正月に源頼朝が死去すると、梶原景時は引き続き宿老として二代将軍・源頼家に重用されました。


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その後、頼家の失政を理由に政務が停止され、十三人の合議制が置かれると、景時もこれに名を連ねました。

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光の言葉を頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めたたことにより、御家人たちの反感を買い、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出されたました。頼家は景時に弁解を求めましたが、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いていきました。その館がこの一宮館とされ、館の西側には城之下(じょうのした)という地名も残されています。

景時の本宅は鎌倉にありましたが、日頃の情報収集や鎌倉の非常時に守りを固める意味もあり、相模国一之宮(寒川町)にも館を築いていたそうです。

館址に建つ一之宮天満宮
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景時は短歌をたしなみ、里人はその風雅を称え、館の一部と伝わるこの場所に天満宮を創建したと言われています。

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梶原景時館跡

梶原景時は治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。
頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年(1200)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました。
館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。

平成21年3月
寒川町教育委員会


天満宮遺跡碑
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こんな公園になっています。

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なお、2001年に行われた発掘調査では、館の堀跡らしき遺構が確認されたものの、直接梶原氏に関わるものかはわからず、今後の調査研究の対象とされているそうです。x

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