寒川を巡る旅(2)梶原景時館跡
自転車を借りて最初に向かったのは、一之宮地区にある梶原景時館跡です。
正治元年(1199年)正月に源頼朝が死去すると、梶原景時は引き続き宿老として二代将軍・源頼家に重用されました。
その後、頼家の失政を理由に政務が停止され、十三人の合議制が置かれると、景時もこれに名を連ねました。
頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光の言葉を頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めたたことにより、御家人たちの反感を買い、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出されたました。頼家は景時に弁解を求めましたが、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いていきました。その館がこの一宮館とされ、館の西側には城之下(じょうのした)という地名も残されています。
景時の本宅は鎌倉にありましたが、日頃の情報収集や鎌倉の非常時に守りを固める意味もあり、相模国一之宮(寒川町)にも館を築いていたそうです。
館址に建つ一之宮天満宮
景時は短歌をたしなみ、里人はその風雅を称え、館の一部と伝わるこの場所に天満宮を創建したと言われています。
梶原景時館跡
梶原景時は治承4年(1180)8月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大だったとの説もあり、現在も当時のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
景時は和歌もたしなみ文武両道に秀でた武将でした。
頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)11月、鎌倉を追放され、一族郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治2年(1200)正月20日午前2時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最後を遂げました。
館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。
平成21年3月
寒川町教育委員会
天満宮遺跡碑
こんな公園になっています。
なお、2001年に行われた発掘調査では、館の堀跡らしき遺構が確認されたものの、直接梶原氏に関わるものかはわからず、今後の調査研究の対象とされているそうです。x
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