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2024年10月 7日 (月)

寒川を巡る旅(3)梶原一族郎党の墓

薬師堂の前に、「梶原景時と一宮館址」の案内板があります。

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 梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。
梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
 治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜んでいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したものの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
 翌年1月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげたほか、頼朝の片腕として侍所所司(さむらいどころしょし)をはじめさまざまな重職に携わりました。
 頼朝の死後、正治元年(1199)10月、結城朝光(ゆうきともみつ)謀反の疑いを将軍頼家に讒言(ざんげん)したとの理由で御家人66名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、12月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
 正治2年(1200)1月20日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。
 幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。

 梶原景時公没後800年記念事業
 平成12年7月 寒川町梶原公顕彰会
 平成27年改修 寒川町教育委員会


梶原一族郎党の墓
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梶原景時館址から東に80mのところにある西町集会所(薬師堂)の裏に、梶原一族郎党の墓と伝えられている石造物群があります。

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  伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓

 この石造物群には次のような言い伝えがあります。
正治2年(1200年)正月、梶原景時一族郎党が一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役であった家族、家臣らが弔ったといいます。
 また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害し、それを祀ったものという説もあります。
 なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。
平成21(2009)年3月
寒川町教育委員会

 

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