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2024年12月

2024年12月30日 (月)

北条義時の孫・長時が創建した浄光明寺

鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある浄光明寺は、北条義時の孫であり、6代執権を務めた北条長時が創建した寺院です。

鎌倉七口のうちの亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ヶ谷の支谷、泉ヶ谷に位置し、鎌倉の交通上、防御上、重要な地域にある寺院といえます。

寺伝によれば、建長3年(1251年)頃、第5代執権北条時頼、第6代執権北条長時が開基となって創建したもので、開山は真阿(真聖国師)でした。

それ以前、源頼朝の命により文覚の建てた草庵があったという説もあるそう。

永仁4年(1296年)の開山(真阿)譲状には北条時頼と長時が開基であると記されているそうです。

長時は鎌倉幕府6代執権で、文永元年(1264年)7月3日、病により執権職を辞任して出家、叔父の北条政村が7代執権となりました。

同年8月21日、浄光明寺にて35歳で死去。浄光明寺に葬られ、以後、この寺は長時に始まる赤橋流北条氏の菩提寺となりました。

当寺には長時の木像と位牌が今も現存しているそうです。

鎌倉時代は北条氏の菩提所であり、室町時代には鎌倉公方の菩提寺となりました。

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山門を入ると客殿、庫裏、不動堂、その裏手の一段高くなった敷地に阿弥陀堂と収蔵庫、裏山にはやぐらがあり、網引地蔵と呼ばれる石造地蔵菩薩坐像が安置されています。

阿弥陀堂
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京都の泉涌寺の観音堂に安置に安置されている観音像は、玄宗皇帝が亡き妃の楊貴妃の冥福を祈って造らせたものと伝えられ、

浄光明寺の楊貴妃観音像は、その泉涌寺から贈られたものだそうです。

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2024年12月19日 (木)

安達氏の菩提寺・無量寿院跡に建つ鎌倉歴史文化交流館

鎌倉歴史文化交流館が建つ谷は無量寺谷と呼ばれ、 近辺には 安達盛長の孫・安達義景ゆかりの菩提寺・無量寿院や甘縄の邸宅があったと考えられています。

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敷地内の発掘調査では、鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかり、 安達氏に関係する遺構の可能性が指摘されているそうです。

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この池の跡は、平成14年 (2002) の発掘調査により、現在の鎌倉歴史文化交流館別館の地下、 同建物の北西側の崖下近くから発見されました。発掘された時の規模は、長径約7m50cmで、最大幅 は78cm。池の中央に中ノ島があり、北側には取水のための遣水が付いていました。

池の中から大量のかわらけ(土器)が見つかったほか、池の手前には礎石を持つ建物の跡も発見されました。 これらの年代から、鎌倉時代後期の池の跡と推定され、 鎌倉の中世庭園としては最古級のものであると言われています。

当館が建つこの谷は無量寺谷と呼ばれています。 無量寺は、京都 泉涌寺の末寺で、創建及び廃絶年は不明ですが、 『吾妻鏡』 文永2年(1265) 6月3日条には故秋田城介義景(安達義景)の十三年忌仏事が「無量寿院」で行われたことが記されています。
この近隣には安達氏の館があったとされており、この池もそれに関連した施設であったかもしれません。


江戸時代には刀工正宗の末裔である綱廣の屋敷が、大正時代には三菱財閥の岩崎小弥太が別荘を構えていました。


安達義景
鎌倉中期の武士。景盛の子。嘉禎3(1237)年に秋田城介となり,延応1(1239)年に鎌倉幕府評定衆に任じられて幕政の中枢に参加し,仁治3(1242)年の四条天皇の死に際しては,北条泰時の命を受けて上洛し,後嵯峨天皇を皇位につけた。泰時の死後には執権北条時頼の外戚として執権を補佐し,執権邸での秘密会議である寄合のメンバーとなって行動する。寛元4(1246)年には前将軍の藤原頼経を京に追った宮騒動の中心として活動し,翌年の宝治合戦では高野山から降りてきた父景盛と共に三浦氏の勢力削減を計画し,鎌倉の甘縄の館から討って出て滅ぼしている。その合戦後には上洛して北条重時を鎌倉の連署に迎える使者となり,建長4(1252)年の宗尊親王を将軍に迎えるに当たっても使節に子の頼景が起用されるなど,幕府の節目で重要な役割を果たした。建長4年に五番の引付頭人となり,翌年に病気により出家,法名は願智。以後,その子孫は北条氏家督の外戚として栄えることになった。(コトバンクより)


裏手にはやぐらがあり、高台には現在葛原岡神社に合祀されている合鎚稲荷社がありました。

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やぐら
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2024年12月11日 (水)

和田義盛の眠る和田塚

第二の執権となった北条義時は、姉の北条政子とともに、三代将軍・源実朝を補佐していましたが、建暦3年(1213)、 信濃の武士・泉親衡(いずみちかひら)が、比企一族の残党を集め、二代将軍・源頼家の遺児・千手丸を擁立して謀反を企んでいることが発覚。

この計画に和田義盛の子や甥が加担していていたことが判明。

義盛は実朝に息子と甥の赦免を願い出て、息子は許されましたが、甥の胤長は、罪人としての侮辱を受けた上で配流となり、
胤長の邸宅は義時が接収していまいました。これを機に和田と北条の一門の関係が悪化。
しかし、こうした措置は、義盛に対する義時の挑発であり、策略でもありました。
挙兵に際して最も頼りにしたのが、本家に当たる三浦氏の当主である三浦義村でした。義村は挙兵への同心を約束し、起請文まで書いたのですが、義村は弟の胤義と相談して、義盛謀反を義時に告げたのでした。

建暦3年5月、義盛は一族と共に挙兵し、将軍御所を襲撃。義時率いる幕府軍と二日間に亘る市街戦が鎌倉で繰り広げられました。

武勇で知られる和田一族は奮戦し、和田方が意外な大軍になりつつあるのを恐れた義時と大江広元は、将軍実朝の名で御教書を発しました。これに多くの御家人が応じ、実朝の命を受けた幕府軍は大軍となって押し返し、和田一族は次々と討たれ、そのうち愛息の義直も討ち死に。義盛は声をあげて悲嘆号泣したところへ江戸義範の郎党が襲いかかり、遂に討ち取られてしまいました。享年67。
子の常盛、朝比奈義秀、孫の朝盛らは戦場を脱して落ち延びたといいます。

和田義盛
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久安3年(1147年)、三浦義明の子である杉本義宗の子として誕生。
和田氏は坂東八平氏の一つ三浦氏の支族で、相模国三浦郡和田の里、あるいは安房国和田御厨に所領があったことから和田を姓とする。

源頼朝の挙兵に三浦一族とともに参加し,平氏追討・奥州征討に武功をたて重んじられた。
侍所設置とともに初代別当となり,頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企能員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した。
享年67。(Wikipediaより)

和田合戦

建暦3 (1213) 年5月2~3日に鎌倉で行われた和田氏と北条氏との間の戦闘。和田義盛は鎌倉幕府草創の功臣で侍所別当として権勢を有していたが,
初代将軍源頼朝没後,勢威を高めてきた北条氏と対抗するようになった。
同年2月に発覚した泉親衡の陰謀の加担者として義盛の甥胤長が処罰されたことから両者の関係が悪化した。
義盛は同族三浦氏,姻族横山氏を語らい,相模その他に多数の味方を得て北条氏を打倒しようとした。
しかし開戦に際して三浦氏が違約して北条氏につき,また北条氏が3代将軍源実朝を擁して多数の御家人を集めたため,
勝負は2日間で決し,和田氏は滅亡し,北条氏が権勢を伸ばすこととなった。(コトバンクより)


江ノ電「和田塚駅」から歩いてすぐのところに、和田塚があります。

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敷地内には、「和田義盛ゆかりの地」の幟も立てられています。

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和田塚は建保元年 、鎌倉幕府内部抗争による 北条義時と和田義盛の武力衝突(和田合戦)の結果、和田一族敗死の屍を埋葬した塚として今日まで伝承されている 。和田塚の前身は古墳時代の墳墓であったと言われている。大正末年ごろ開墾などによって多くの塚が壊されましたが、五輪塔をならべた和田塚はかろうじて残った。鎌倉の歴史を語る上で貴重な遺跡である。

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周囲には、五輪塔、石塔、石仏、地蔵などが建ち並んでいます。

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なお、和田義盛について、次のような伝承が残されています。

地元に残る伝承として、和田義盛は戦で敗れたが生き残り、落武者となって南伊豆の青市(あおいち)に身を寄せ、そこで庄屋の娘と結婚し、子供も生まれ、和田の名を山田と改めたという。現在、和田義盛の墓と伝えられるものが、青市のバス停より石廊崎に300mほど向かった場所に和田の谷があり、和田塚と呼ばれて祀られている。(Wikipediaより)

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