安達氏の菩提寺・無量寿院跡に建つ鎌倉歴史文化交流館
鎌倉歴史文化交流館が建つ谷は無量寺谷と呼ばれ、 近辺には 安達盛長の孫・安達義景ゆかりの菩提寺・無量寿院や甘縄の邸宅があったと考えられています。
敷地内の発掘調査では、鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかり、 安達氏に関係する遺構の可能性が指摘されているそうです。
この池の跡は、平成14年 (2002) の発掘調査により、現在の鎌倉歴史文化交流館別館の地下、 同建物の北西側の崖下近くから発見されました。発掘された時の規模は、長径約7m50cmで、最大幅 は78cm。池の中央に中ノ島があり、北側には取水のための遣水が付いていました。
池の中から大量のかわらけ(土器)が見つかったほか、池の手前には礎石を持つ建物の跡も発見されました。 これらの年代から、鎌倉時代後期の池の跡と推定され、 鎌倉の中世庭園としては最古級のものであると言われています。
当館が建つこの谷は無量寺谷と呼ばれています。 無量寺は、京都 泉涌寺の末寺で、創建及び廃絶年は不明ですが、 『吾妻鏡』 文永2年(1265) 6月3日条には故秋田城介義景(安達義景)の十三年忌仏事が「無量寿院」で行われたことが記されています。
この近隣には安達氏の館があったとされており、この池もそれに関連した施設であったかもしれません。
江戸時代には刀工正宗の末裔である綱廣の屋敷が、大正時代には三菱財閥の岩崎小弥太が別荘を構えていました。
安達義景
鎌倉中期の武士。景盛の子。嘉禎3(1237)年に秋田城介となり,延応1(1239)年に鎌倉幕府評定衆に任じられて幕政の中枢に参加し,仁治3(1242)年の四条天皇の死に際しては,北条泰時の命を受けて上洛し,後嵯峨天皇を皇位につけた。泰時の死後には執権北条時頼の外戚として執権を補佐し,執権邸での秘密会議である寄合のメンバーとなって行動する。寛元4(1246)年には前将軍の藤原頼経を京に追った宮騒動の中心として活動し,翌年の宝治合戦では高野山から降りてきた父景盛と共に三浦氏の勢力削減を計画し,鎌倉の甘縄の館から討って出て滅ぼしている。その合戦後には上洛して北条重時を鎌倉の連署に迎える使者となり,建長4(1252)年の宗尊親王を将軍に迎えるに当たっても使節に子の頼景が起用されるなど,幕府の節目で重要な役割を果たした。建長4年に五番の引付頭人となり,翌年に病気により出家,法名は願智。以後,その子孫は北条氏家督の外戚として栄えることになった。(コトバンクより)
裏手にはやぐらがあり、高台には現在葛原岡神社に合祀されている合鎚稲荷社がありました。
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