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2025年1月23日 (木)

妙本寺(2)比企一族の墓

妙本寺の境内には比企一族の墓一幡の袖塚があります。

比企一族の墓
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北条時政は、娘・北条政子と組み、源頼家を亡き者にし、千幡(後の実朝)を次期将軍に立てようと画策。

1203年、頼家が病気になると、時政は一幡(源頼家の嫡男で、母は若狭局(比企能員の娘)に関東二十八区に地頭職と日本国総守備職を、実朝には関西三十八国地頭職を相続させました。 

これに不満を抱いた比企能員は、頼家と組み、北条氏を打倒することを決意。

しかし、このことが時政の耳に入り、時政は能員を自宅に招き、殺害。

続いて北条氏は比企谷の比企一族の屋敷を襲撃。

一族は一幡を守ろうと防戦しまいたが、屋敷に火が放たれ、母とともに焼死、後で焼け跡から一幡の袖が見つかったといいます。

一幡はその時、わずか6歳でした。

しかし、一幡の死には諸説あり、一幡は母が抱いて逃げ延びたが、後に北条義時の郎党に捕らえられて刺し殺されたという説も。

一幡の袖塚
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石碑に「源頼家卿嫡男一幡君」の文字が刻まれています。

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初代将軍源頼朝の嫡男頼家の長子として誕生。初孫誕生の翌年、祖父頼朝が死去し父頼家が家督を相続した。一幡が6歳となった建仁3年(1203年)7月に頼家が重病となり、危篤状態に陥ると家督相続を巡って一幡の母の実家比企氏と、頼家の母方の外戚北条氏が対立し、比企能員の変が起こる。

『愚管抄』によると、重病に陥った頼家は家督をすべて一幡に譲ろうとしたが、それでは一幡の外祖父比企能員の全盛となる事を恐れた北条時政が、能員を呼び出して謀殺し、頼家の弟で一幡の叔父である千幡を次期将軍に立てるべく都へ使者を送り、その間に比企一族は北条氏一派の率いる大軍に攻められて滅亡した。一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月に北条義時の郎党に捕らえられて刺し殺されたという。享年6。頼家の子女の中で最初の死亡者である。

鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』では、家督相続は一幡に関東28ヶ国の守護・地頭職を譲り、時政が後ろ盾となっている千幡に関西38ヶ国の守護・地頭職が譲るとする決定に比企能員が反発し、頼家に讒言して時政と実朝の討伐を計った。時政が先手を打って能員を殺害し、一幡の住む小御所を襲撃して比企一族を滅ぼしたとしている。一幡と若狭局も、その時に一族と共に焼死したという。
(Wikipediaより)

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