土佐坊昌俊邸跡と堀川夜討
鎌倉の小町大路沿いに土佐坊昌俊邸跡の石碑が建っています。
源頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は義経を討つべく御家人達を召集したところ、名乗り出る者がおらず、土佐坊昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせたといいます。
頼朝から京都・堀川にいる義経を討つことを命じられた昌俊は、出発前に頼朝に面会し、自分にもしものことがあったら、下野に残してきた年老いた母と子供たちに情けをかけて欲しいといったと伝えられています。
昌俊は弟の三上弥六家季ら83騎の軍勢で鎌倉を出発し、京の義経の館である六条室町亭を襲撃(堀川夜討)。
「文治元年九月十七日六條堀川夜討之圖」
義経の家人達は出払っていて手薄でしたが、義経は佐藤忠信らを伴い自ら応戦、後に源行家の軍勢も義経に加わりました。
結局、義経暗殺は失敗に終わり、敗れた昌俊は鞍馬山に逃げ込みましたが義経の郎党に捕らえられ、2家人と共に六条河原で処刑されました。
しかし、これには異説もあり、以前、義経の父・義朝に仕えていた昌俊を、義経は殺すことができず逃がしたともいいます。
義経は襲撃翌日、頼朝追討の宣旨を後白河法皇から受け取ると、直ちに挙兵の準備を開始しました。
土佐坊昌俊を源義経に引き渡す武蔵坊弁慶(『堀川夜討之図浮絵二枚続』より)x
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