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2026年3月

2026年3月31日 (火)

修善寺の旅(7)桂川にかかる恋の願掛け橋

修善寺の桂川にかかる5つの橋は、上流から滝下橋、楓橋、桂橋、虎渓橋、渡月橋といい、などそれぞれ別名が付いています。

滝下橋(たきしたばし) 別名:安らぎ橋
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赤蛙公園の近くの橋が滝下橋で、橋が朱色ではありません。

夫婦円満のご利益があるといわれています。

北条義時ゆかりの地の幟が飾られていました。

渡月橋(とげつばし) 別名:みそめ橋
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渡月橋は良縁祈願のご利益があるとされています。


虎渓橋(こけいばし) 別名:あこがれ橋
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虎渓橋は、恋愛成就のご利益があるとされています。

虎渓橋から見える独鈷の湯。
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渡月橋から見た虎渓橋
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桂橋(かつらばし) 別名:結ばれ橋

楓橋から見た桂橋
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子宝祈願のご利益があるとされています。

楓橋(かえでばし) 別名:寄り添い橋
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結婚祈願のご利益があるとされています。

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2026年3月22日 (日)

修善寺の旅(6)独鈷の湯

独鈷の湯(とっこのゆ)は、修善寺温泉の修善寺川(桂川)の川中にあり、伊豆最古の温泉ともいわれています。

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大同2年(807)、修善寺を訪れた空海は桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行の心に打たれ、「川の水では冷たかろう」と持っていた独鈷杵で川の岩を打ち、霊泉を湧き出させました。

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その湯に浸かったところ、十数年来の父親の病気はたちまち完治させることができたといいます。

これにより、温泉療法が広まり、修善寺温泉が始まったとされています。

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現在、独鈷の湯は見学のみで、入浴は不可となっています。

 

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2026年3月14日 (土)

修善寺の旅(5)安達盛長の墓

修禅寺の裏側に安達盛長の墓があります。

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盛長は、源頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しました。

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妻は頼朝の乳母・比丘禅尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻。

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盛長の墓は、以前は修善寺の小山地区にある源範頼の墓のそばにありましたが、バイパス工事に伴い、桂谷トンネルそばの修善寺梅林登り口に移されたそうです。

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源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としており、頼朝が伊豆の流人であった頃から仕える。妻がかつて宮中で女房を務めていた事から、藤原邦通を頼朝に推挙するなど京に知人が多く、京都の情勢を頼朝に伝えていたと言われている。また『曽我物語』によると、頼朝と北条政子の間を取り持ったのは盛長とされる。

治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(1184年)の頃から上野国の奉行人となる。文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍。物見岡合戦では、預かり囚人の筑前房良心(平家一族)が戦功を立てた。新恩として、陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘を給わったと考えられ、子息弥九郎景盛が安達氏の祖に、次郎時長が大曽根氏の祖となる。公式に家来を持つことを禁止されていた流人の時代から、数少ない実質的な従者として身辺に侍っていた盛長は頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の甘縄宅をしばしば訪れている事が記録されている。

正治元年(1199年)1月の頼朝の死後、出家して蓮西と名乗る。同年4月、二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり、幕政に参画。その年に三河国の守護であることが確認できる。同年秋に起こった梶原景時の弾劾(梶原景時の変)では強硬派の一人となり、翌年の正治2年4月26日(1200年6月9日)に死去。享年66。生涯官職に就く事はなかった。

 

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2026年3月 1日 (日)

修善寺の旅(4)源範頼の墓

源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示していましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院にに幽閉されました。

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その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。


修禅寺から西の小山地区の山腹に、源範頼の墓と伝わる祠があり、明治12年に骨壺が掘り出されたのこと。

現在の範頼の墓は、昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものです。

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 範頼は鎌倉初期の武将。義朝の第六子で、蒲冠者と呼ばれた。
 治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。
 その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ると、 範頼も背くようになると疑われるようになった。
 建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちのとき、鎌倉へは頼朝も殺されたと誤って伝え られ、 悲しむ政子を慰さめて「範頼あるかぎりご安心下さい」といったことから、幕府横領の疑いを招いた。
 範頼は百方陳弁につとめたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、 日枝神社下にあった信功院で自刃したと伝えられている。


範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。

神奈川県横須賀市にある追浜という地名の由来は鎌倉方から追われた範頼がここに上陸した為と言われておりその際に現地の者たちに匿ってもらった礼に自分の蒲の字を与え蒲谷と名乗らせたという言い伝えがある。

このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には、範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある。範頼の伝説に由来する蒲ザクラは大正時代に日本五大桜の天然記念物に指定され、日本五大桜と呼ばれる。

また伊予国の上吾川(現愛媛県伊予市)の称名寺と隣接する鎌倉神社にはこの地へ逃れてきたとされる範頼の伝説と墓所が存在している。(Wikipediaより)

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お墓のある高台からは、修善寺の街が一望できます。

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