修善寺の旅(14)源頼家が幽閉された修禅寺
修善寺温泉街の中心にある修禅寺
地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。
807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。
当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。
手水舎から出ているのは温泉です。
岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台、また、源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の
源頼家が当寺に幽閉され、その後この地で殺害された寺としても知られています。
但し、範頼に関しては殺害を裏付ける史料が残っていないことや子孫が御家人として残っているということから生存説が伝わっています。
修禅寺
修善寺温泉発祥の寺で、平安初期の大同2年(807年)弘法大師が開基したもので、当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから「桂谷山寺」と言われ、伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高い寺であった。
鎌倉初期になって建長年間(1250年頃)に蘭渓道隆(臨済宗鎌倉建長寺開山の宋禅僧)が住し、桂谷の風致が支那の廬山に似ていることから「肖廬山」と号した。
南北朝時代の康安元年(1361年)に畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1401年)には火災を蒙り、伽藍を全焼して寺は荒廃し衰退した。
その後、延徳元年(1489年)に至り、韮山城主の北条早雲が再興し、叔父の隆渓繁紹禅師が住して曹洞宗に改宗だれ山号も「福地山」と改められ今日に至っている。
伊豆市
建仁3年(1203)、源頼家は重病にかかり、万一の事態が予想されたため、頼家の権限を、嫡男の一幡と弟の千幡に分けることになりました。
しかし、北条時政の陰謀により、一幡の外祖父である比企能員を謀殺、比企一族は、一幡の館に立て籠もりましたが、北条政子の
命で軍勢が押しかけ、ついに滅ぼされてしまいました。
この直後に一旦回復した頼家は、事件を知って激怒しますが、時政討伐に従う者はなく、鎌倉殿の座を追われ、修禅寺に幽閉されます。
そして、頼家の生存中に千幡(源実朝)が鎌倉三代将軍職を継ぐことになり、時政が幕府の実権を握るに至りました。
頼家は、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害されました。享年23(満21歳没)。
『吾妻鏡』では、、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみですが
『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえてようやく刺し殺したといいます。
4月下旬、美しい新緑に包まれた境内が出迎えてくれました。
隣接の宝物殿「瑞宝蔵」には、空海が温泉を湧き出させたという金銅の独鈷杵、北条政子が我が子頼家の冥福を祈って寄進した宋版放光般若経、岡本椅堂が戯曲「修禅寺物語」を書くヒントとなった頼家の最期をうつしたといわれる木彫りの古面などが展示されています。
修禅寺物語
岡本綺堂(きどう)作の戯曲。1幕3場。1911年(明治44)1月『文芸倶楽部(くらぶ)』に発表。同年5月明治座で2世市川左団次らにより初演。伊豆の修禅寺の面(おもて)作り師夜叉王(やしゃおう)は将軍源頼家(よりいえ)の命で面を打つが、死相が現れて満足のゆく作品ができない。しかし催促にきた頼家はその面が気に入り、持ち帰るとともに、夜叉王の姉娘のかつらを側女(そばめ)とし若狭(わかさ)の局(つぼね)と名のらせる。やがて頼家は北条の討手に襲われ落命し、かつらはその面をつけて身代りにたとうとして深傷(ふかで)を負って家に戻る。夜叉王は頼家の運命が面に現れたものと、自身の技芸に満足し、断末魔の娘の顔を写生する。綺堂が、修禅寺の寺宝の頼家の面と称する古色蒼然(そうぜん)たる面をみて詩趣を覚えて創作したもので、歌舞伎(かぶき)の伝統を巧みに生かしながら、新鮮味を盛った作として彼の出世作となり、新歌舞伎の代表作ともなった。(コトバンクより)
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